映画撮影の協力団体としてスタート

哥麿会は1975年に映画「トラック野郎」シリーズの撮影協力団体として立ち上がった。

トラック野郎とは、1975年から1979年に東映が制作・配給した全10作の映画だ。単発の企画映画として『トラック野郎 御意見無用』が公開されると初日から映画館が満員となり、シリーズ化が決定。夏と冬の年に2回公開される定番映画となった。

映画『トラック野郎 御意見無用』の製作発表で、共演した愛川欽也さん(左)と肩を組む菅原文太さん=1975年7月
写真=共同通信社
映画『トラック野郎 御意見無用』の製作発表で、共演した愛川欽也さん(左)と肩を組む菅原文太さん=1975年7月

キネマ旬報社が2022年に発行した『キネマ旬報ベスト・テン95回全史 1924-2021』によると、第1作目の「トラック野郎・御意見無用」配給収入は4.1億円で、この年の邦画興行収入で8位となった。1976年からはその年に公開された2作とも上位トップ10に名を連ねるようになった。ヒットを飛ばしていた『男はつらいよ』シリーズに匹敵する娯楽映画となった。

当時の哥麿会のメンバーはトラックドライバーや運送会社の社長など。映画「トラック野郎」シリーズに出演する車両や運転手の手配に協力する役割を担っていた。ちなみに、初代哥麿会会長の宮崎靖男さんは哥麿役として映画に登場している。映画に出演したいと考える若者達が哥麿会に押し寄せたそうだ。

チャリティー団体に生まれ変わる

しかし、1979年にシリーズが打ち切りになると、目的を失った哥麿会は解散状態になった。そのまま残り続け、1981年に3代目の会長に就任したのが田島さんだった。

「心の底からデコトラが好きなやつ以外は去ってしまったよな」と振り返る。

「全国哥麿会」の会長を務める田島純一さん
筆者撮影
「全国哥麿会」の3代目会長・田島順市さん

田島さんが会長になると、哥麿会はチャリティーイベントを主催する団体へ生まれ変わった。デコトラ撮影会を年に3回全国で開催。イベントではカレンダーやタオルなどのオリジナルグッズを販売し、交通遺児の支援団体などに収益を寄付してきた。カウントダウンもチャリティーイベントの一環だ。

「チャリティーは、イベントを開くための名目だよな。目的がないと団体も活動も続かねえ。そう思って、募金や寄付を始めたんだ。最初はチャリティーって言葉の意味もよくわかってなかったよ(笑)」

さらに、哥麿会の活動は拡大する。後述する1995年の阪神淡路大震災をきっかけに、災害ボランティアの活動を本格化。2024年1月1日の能登半島地震では発災翌日から体制を整え、1月7日から被災地でボランティア活動を実施した。

カウントダウンイベントを終えた後の大地震

2024年1月1日16時10分。能登半島で地震が発生した時、冒頭で紹介した利根川河川敷でのカウントダウンイベントを終えた田島さんは、埼玉県本庄市にあるラーメン店で哥麿会の会員たち20人と打ち上げをしていた。

「そろそろお開きにすっか」と田島さんが言葉を発したタイミングで、会員たちのスマートフォンから緊急地震速報の警告音が一斉に響いた。

震源地は石川県能登地方。最初は被害の大きさがわからなかったが、「これは行かなきゃなだよな」と会員たちに声をかけた。打ち上げは解散。九州や大阪などの遠方から来た会員たちを連れて自宅に戻った。

家のテレビをつけると、どのチャンネルも地震のニュースばかりだった。被害の大きさを知った田島さんは、すぐに現地の知人に電話をかける。

「2007年に能登半島地震が起こってから輪島でボランティアやチャリティーイベントを開いてきた。現地でお世話になっている人がいるから連絡を取ったんだ。ただ、電話は通じなかった。次に、年越しのイベントに参加してくれたやつに電話をかけたんだ。そいつは輪島市から60kmくらい南にある志賀町ってところに住んでいるやつだな。電話をかけたら『けが人はいなかったけど帰ったら家がなくなっていた』と言っていた。『いつでもそっちにいけるように体制を整えるから。道路状況や現地の事情を教えてくれ』と依頼したんだ」