大雨のなかで開いた初めての撮影イベント
1983年8月15日、初めてイベントを開催した。当日は台風による雨模様だった。
会場は、現在の横浜町田インターチェンジを降りてすぐにあった「東名飯店」。観光バスを止められるようなジャリ敷きの駐車場に、デコトラ30台を集めた。
テレビや雑誌にはほとんど取り上げられていない。さらに、足のすねの高さほどの水たまりが数箇所にできるほどの悪天候だったため、来場者は0人でもおかしくない状況だった。
しかし、予想は覆される。
イベントがスタートすると、近隣の人たちが傘をさしてポツポツと現れた。1時間に10人程度ではあるものの来訪者は途切れない。この日は100人ほどが来場したという。
「次はいつやるんですか?」
ある参加者からその言葉を聞いた時、手応えを実感した。
「まだまだデコトラ好きはたくさんいる。この大雨で人が来るんだったらもっとできるはずだ。継続してやっていこう!」
こうして2回目の撮影会を開くことが決まった。
「撮影会を続けるためには目標が必要だった」
この時、田島さんはイベントを続けるための方法を考えた。
「撮影会を続けるためには目標が必要だと思ったんだ。トラックと事故の話は切っても切り離せない。自分の周りでも話をよく聞く。交通事故でダンナをなくした嫁さんを支援する「交通遺児母の会(2024年に活動休止した交通遺児等を支援する会)」への寄付と募金。つまり、チャリティー活動を撮影会の目的にしようと決めたんだ」
2回目の撮影会は1984年8月5日、静岡・日本平のゴルフ場で行った。当時の静岡の支部長が関西に拠点を置く別のデコトラ愛好団体にも声をかけ、500台のデコトラが集まった。
現在も続くデコトラ専門誌『カミオン』が創刊したのはこの時期だった。イベントの告知記事が事前に掲載された影響は大きく、会場には約5000人が押し寄せたという。Tシャツ、カレンダー、タオルなどのオリジナルグッズは1時間で完売。売上から交通費などの経費を除いた収益25万円を交通遺児母の会に寄付した。
ここからデコトラブームが徐々に起こり、勢いに乗った哥麿会の名は全国へ広がる。
「前の会の時は会員同士の間に壁があった。また、会員も映画に関わっているから、『自分たちは特別だ』と思っているやつらも多かった。俺はそういうのが嫌だったから、『来るもの拒まず』な組織にしたいと思ったんだよ」
20歳で暴走族を卒業した若者たちからの入会希望を受け入れて、会員の数は数百人ペースで増えていく。
一方で、田島さんの本業は大きなピンチに見舞われていた。