突然閉じた家業の瓦店

田島さんの瓦の工場はいつ潰れてもおかしくない状況だった。

1970年代には毎日東京へ瓦を運んでいたものの、1980年代に入ると週1回ほどに減った。作った瓦は在庫として残り、会社横にある自宅の庭には瓦が山のように積み重なった。

「カミさんとお袋に任せていたからお金周りの詳しいことはわかんねえ。でも、運ぶ瓦はなくなっていく。今後ダメになると思ったから、ダンプの仕事を増やしたんだよ。最初は土砂の配送を請け負って、徐々に砂利も運ぶようになったんだ」

当時の首都圏では高層ビルの建設ラッシュが始まっていた。田島さんのダンプ業は好調で、5~6人のチーム体制でフル稼働した。ところが…。

「暮らしが成り立っているから、なんとかなっているのだろう」と思いながら、仕事に打ち込む日々を過ごしていたが、瓦店の赤字は予想以上に膨らんでいた。ある日、「対処しないと致命傷に至る」と考えた妻と母は行動に打って出た。

「お袋とカミさんが職人たちとの契約を打ち切ったんだ。いつもは朝になるとガチャガチャと瓦を運ぶ音がするんだけど、その日は休みのように静かだった。カミさんに『作業場に何かあったの?』と聞いたら、『昨日の晩に帰ってもらいました』と言われてさ。職人がいないと瓦は作れねえ。頭を下げて戻ってきてもらうわけにもいかない。状況も状況だ。トラック1本で頑張ろうと気持ちを改めたよ」

「全国哥麿会」の会長を務める田島純一さん
筆者撮影
家業の瓦店の赤字はどんどん膨らんでいった

6000万円の負債

この時、瓦店には6000万円の負債が残っていた。70年代の終わりに一新した作業場の費用の返済がまだ済んでいなかった。

「さすがに絶望的だったよ。でも、持ち直す方法を考えないといけない。どの土地や設備を売れば生き残れるのか。そのことばかり考えていたよ」

近所では夜逃げする瓦店もあった。危機感を募らせながらダンプカーのハンドルを握るも解決策は思いつかない。乗り切るためには仕事の規模を拡大することも必要と考え、友人から声をかけられたことを契機にスクラップの運搬を始めた。

自治体からの許可証が必要な専門的な仕事は、これまでに配送していた仕事の5倍ほど単価が高く、会社の延命につながった。「このおかげで何とか持ち堪えられていたよ」と田島さんは振り返る。

耐え忍ぶ日々を続けること約2年。負債の整理は思うように進んでいなかったが、1986年ごろに一気に問題が解決する。バブル経済という神風が吹いたのだ。

「持っていた500坪の土地の価格が10倍近くに跳ね上がってさ。それを売って借金を一気に返済できたんだよ。2~3年後には土地の価格は急に下がった。売るタイミングが早くても遅くてもダメだった。もしタイミングがズレてたら、家もトラックも全部なくなっていた。よくわからない幸運に助けられたよ」

こうして瓦店は運送会社に変貌した。自動車工場から排出されるスクラップ運搬の依頼も増加。関東以外の仕事も徐々に担い、1990年代に入ると九州から北海道まで全国のスクラップ運搬に携わるようになった。

「全国の自治体の産業廃棄物を運搬する許可証を取ったんだよな。日本全国をまわりながら哥麿会の支部を作っていた時期でもあったから、一緒にやったんだ。各地で知り合いも増えるから仕事も広がっていったよな」