自分たちのために始めたボランティア

哥麿会の活動も、自身の会社も軌道に乗ってきた1995年、46歳になった田島さんに大きな転機が訪れる。1月17日早朝に発生した阪神・淡路大震災だった。

朝に起きてテレビをつけると、画面には崩落した阪神高速道路と黒煙に包まれた神戸の街が映し出されていた。これまでに募金やチャリティーの活動は行ってきたが、本格的な災害ボランティアに取り組んだことはない。被害の大きさに言葉を失った田島さんは「できる範囲で何かやろう」と立ち上がる。

関東在住の会員10人に電話をかけると、すぐさま賛同してくれた。同時に神戸で働いた経験のある姫路在住の会員にも連絡し、道路状況の確認と現地の案内を依頼した。

テレビでは、被災地で水が不足していると報じられていた。4トンの給水タンクローリー車を手配。さらに、焼きそばの炊き出しの材料とバナナを中型トラック4台に積み込み、地震が発生した当日の夜に自宅を出発した。

1月18日午前6時ごろに姫路に着いた。そこから現地会員のトラックに先導されて、神戸市兵庫区の大開小学校へ向かった。悲惨な光景が目に次々と飛び込んできた。倒壊した兵庫警察署を見て「1番丈夫なはずの警察署が潰れるなんて……」とショックを受けた。

田島さんは数日のボランティアを計画していたが、「本格的に取り組まないとどうしようもない状況だ」と感じた。仕事に支障がない人たちだけ現地に残り、10日間、被災地でボランティア活動を続けた。

哥麿会のイベントの様子。被災地での炊き出しも、この大きな鉄板で温かい焼きそばを届けた
筆者撮影
哥麿会のイベントの様子。被災地での炊き出しも、この大きな鉄板で温かい焼きそばを届けた

誰かに感謝される経験が必要だった

大開小学校は避難所になっていた。校庭にテントを組み立て、テーブルと鉄板を並べて、焼きそばを作った。集まった子どもたちに渡していく。温かい食べ物を受け取ると、うれしそうな表情を浮かべ、それを見た大人たちも笑顔になっていた。田島さん自身も少し救われた気持ちになった。炊き出しを終えた後は体育館の2階に泊まった。

翌日からは本格的に飲用水の提供をはじめた。会員が姫路に戻り、1晩かけて4トンの水道水をタンクに貯めて、翌朝に神戸市長田区にある神社に集合した。

自衛隊員と一緒に集まってきた人たちのポリタンクに水を注いでいく。山の中腹にある神社の階段を登って来れない人たちもいるため、ポリタンクを持って、公民館や民家を回った。夕方には水がなくなるため、姫路に戻り、1晩かけて4トンの水を貯める。そして、翌朝から飲料水を配る。これを現地にいる間、繰り返した。

「ありがとうございます」
「助かりました」

感謝の言葉を受け取り、会員たちの表情が和らいでいった。

「うちの会員数は最盛期には3000人くらいいた。半分は暴走族上がりだったから、人間を信用できなくなったやつもいた。そういうやつこそ誰かのために何かをやって、感謝を受ける経験が必要だと気づいたんだ。それに、俺は子ども達を元気づけたい。仲間と自分のためにボランティアをやっていこうと決めたよ」

哥麿会のステッカー。イベントで販売し、収益は被災地支援活動や寄付にあてられる
筆者撮影
哥麿会のステッカー。イベントで販売し、収益は被災地支援活動や寄付にあてられる