大河ファンとして残念だった7つの場面
よい部分も多かっただけに、それとの対比で、「ここはこうしないでほしかった」と思うことも少なからずあった。そこで、「光る君へ」を歴史ドラマとして評価した場合に、残念に思われた場面を7つ挙げたい。私自身、大河ドラマファンのひとりとして、制作サイドにも視聴者にも考えてもらいたいからである。
第7位は、終盤の第46回「刀伊の入寇」や第47回「哀しくとも」で見られた偶然の連鎖を挙げる。紫式部は没年に諸説あり、寛仁3年(1019)に異賊が北九州沿岸を襲撃した時点では(刀伊の入寇)、生きていたのかもわからない。
したがって脚本家の腕の見せどころだが、まひろが旅に出て大宰府に着くと、越前で出会った中国育ちの医師、周明(松下洸平)と再会し、まひろの娘の賢子(南沙良)と恋仲だった双寿丸(伊藤健太)までいる。そのうえ、まひろが周明とともに松浦(長崎県松浦市)に向かうと、その途上で刀伊に襲われ、絶妙のタイミングで双寿丸らが助けに現れるが、周明は刀伊の矢に打たれて息絶える――。
刀伊の入寇は平安中期を揺るがした日本の危機で、これを描くために、そのころの動向がわからない紫式部を現場に立ち会わせたところまではいい。だが、その場で知人に次々と会い、危機を迎えると双寿丸が現れ、しかし、もう一方の知人は死ぬ、という展開は、『水戸黄門』などの娯楽時代劇か、やりすぎの韓流ドラマを思わせる。もう少し自然な展開にできなかったのだろうか。
平安時代の恋愛はもっと面倒だった
第6位には、とくに上記の場面の延長で見られた、センチメンタルすぎる紫式部を挙げたい。周明が死んで泣き叫び、大宰府に戻ってからも、太宰権帥の藤原隆家(竜星涼)の前で、「周明と一緒に私も死んでおればよかったのです」と泣き続けるまひろに、私は共感できなかった。
「光る君へ」で描かれたまひろは全体に、センチメンタルで直情的だったが、『源氏物語』や『紫式部日記』から推察される紫式部は、私にとっては、もっと斜に構えたひねくれ者のリアリストだったと思われる。もっとも、異なる感じ方があることは否定しないが。
第5位は、貴族の女性が顔を見せすぎたこと。「光る君へ」では、まひろは思い立つとすぐに外出していたが、これは当時の貴族女性が普通にできたこととは思われない。
平安中期以降、貴族の女性は異性に対してみだりに顔を見せてはいけないという習慣が定着していた。このため人と面会する際は、基本的に簾や几帳を隔てていた。まひろが行動しないとドラマが動かないのはわかるが、そのために、平安時代の基本的なルールが無視されてしまうと、時代への誤解につながるから難しいところだ。
また、この時代は恋愛が盛んだったというイメージがあるが、そのプロセスは現代とはまったく違った。貴族の男性は気に入った女性に向けて和歌を詠み、使者に渡して女性のもとに届けさせ、女性はそれを読んで、気に入ったら返歌を送る。こうして何度か和歌を交わしたのちに、ようやく男性が女性の家を訪れ、また簾越しに和歌を詠み合って、気が通じ合えばようやく会える。面倒だったのである。
「光る君へ」では、このプロセスがほとんど省略された。たとえば、第24回「忘れえぬ人」で、紫式部の夫となった藤原宣孝(佐々木蔵之介)がまひろに求婚する際も、実際には手紙に記された言葉を、すべて口頭で語っていた。上述したプロセスをドラマで描くのが困難なのはわかるが、男女の交流がほとんど現代劇のように描かれ、違和感が残った。