本当に道長と紫式部の間に子どもがいたのか
第27回「宿縁の命」では、まひろは石山寺(滋賀県大津市)で道長と再会し、一夜をともにする。それはちょうど夫の宣孝がまひろのもとに通っていなかった時期で、紫式部が産んだ女児、すなわち賢子は、道長との不義の子だという話になった。
このこと、つまり紫式部は道長の子を産んだという設定を第4位に挙げる。脚本を書いた大石静氏は、2024年6月30日付で朝日新聞に掲載されたインタビュー記事で、紫式部と道長を恋愛関係にしたことについて、「時代考証の倉本一宏先生からも『その設定で、やってもよい』と言われました」「繰り返しますが、時代考証の先生のチェックを得たうえでです」と強調している。
実際、わかっていることが少ない紫式部をヒロインに据える以上、道長との恋愛のような、ドラマの背骨になる設定が必要なのはわかる。だが、娘まで道長の子にしてしまうのはいかがなものか。
1000年前の人のDNA鑑定は不可能だから、賢子が道長の子ではないと証明することはできない。だが、賢子を道長の子ということにすると、彼女ののちの出世なども、余計なフィルターをとおして眺めることになってしまう。
道長が出家した本当の理由
同様に、道長が出家したのはまひろが宮廷を去ったのが原因、という設定もいただけない。これを第3位としたい。「光る君へ」では、基本的に健康体のように描かれた道長だが、実際は、若いころからかなり病弱で、途中からは飲水病(糖尿病)の持病にも苦しんだ。
寛仁3年(1019)に出家した当時は、胸病の発作に襲われ、目もよく見えず、飲水病は進行し、かなりの病体だった。そのとき道長が深めていたのは浄土信仰だった。以前の道長は現世利益を中心に説く密教に帰依していたが、次第に法華信仰、そして来世で極楽浄土に往生するための浄土信仰に傾倒していった。
あらためて強調するまでもないが、道長が出家した原因は紫式部とは関係ない。そこを関係づけてしまうと、この時代の上流貴族がなにを大事にしていたのか、見えなくなってしまう。道長にとって切実だったのは、紫式部への思いではなく浄土への思いだった。じつはその点においては紫式部も同様で、年を追って浄土への思いを深めていた。そのあたりが「光る君へ」で無視されたのは残念である。
上記の話の延長だが、道長の死を看取ったのがまひろだという設定も、どんなものか。これを第2位に挙げる。最終回「物語の先に」で、まひろは道長の正妻の倫子(黒木華)に道長との関係を、出会いにまでさかのぼってみな話してしまう。いくら問われたからとはいえ、あの紫式部がこんなふうに自分語りをするのは違和感があった。
それはともかく、道長が弱り切ってから、まひろは倫子に依頼されて毎日、道長を見舞ったのである。