『文藝春秋』創刊号がわずか3日で売り切れ
菊池が立ち上げた『文藝春秋』創刊号は、発行した3000部がわずか3日で売り切れになるほどのヒットを記録。2号目からは、すでに小説家として名を馳せていた自身のネームバリューを利用して、表紙に「菊池寛編集」という文字を大きく入れました。
この狙いが的中して、販売部数をさらに伸ばします。また、創刊と同じ年に発生した関東大震災の復興支援の空気が醸成されていたこともあって、『文藝春秋』は部数を重ねるごとに人気を博していきました。
関東大震災といえば、「鎌倉文士に浦和画家」といわれます。これは関東大震災で壊滅状態になった東京から鎌倉へと移り住んだ文学者と、埼玉・浦和へと移り住みアトリエを構えた画家が多かったことに由来します。
それほど大きなダメージから復興需要が生じた影響が、文化・文芸にも浸透してくるようになったのです。本書で触れた「円本ブーム」に加え、外国作家の翻訳本なども、ものすごい勢いで売れるようになりました。
首都・東京の災害復興によって、広く日本全体の文化力を底上げするムードが満ちていました。そういう状況下にあって、菊池は『文藝春秋』をただの文芸誌ではなく、世の中の「流行」や「ゴシップ」など扱うネタの間口を広げていったのです。
こうして、小説家、新聞記者、プロデューサー、編集者、「文藝春秋」の経営者と、菊池の肩書きは次々に増えていきます。
「適当に飲み食いして、しゃべってくれればいいよ」
実は、菊池が『文藝春秋』で発明したことが、2つあります。
1つは「座談会記事」です。いまでは複数人が集まって特定のテーマについて議論する座談会を記事にして雑誌に掲載するのは、ごく当たり前になっていますが、このスタイルを確立したのは菊池なのです。
とはいうものの、これはいわば“苦肉の計”でした。原稿を依頼しても執筆を拒むことのある高名な作家たちに、気軽に発言してもらうための策だったのです。
菊池の手口はこうです。作家たちを料亭に呼び、高級な料理と酒でもてなして、「どうぞ勝手にしゃべってください」と促します。当時は小型の携帯録音機はありませんでしたから、話す内容をその場で記者が速記して、あとで記事にまとめるのです。
芥川も座談会に呼び出されて「俺、何もしゃべることないよ」などとごねたこともありましたが、菊池は「適当に飲み食いして、しゃべってくれればそれでいいよ」といなしたそうです。
まったく菊池というのは、つくづく人心掌握術に長けた人物なのでしょう。