※本稿は、松永正訓『看護師の正体 医師に怒り、患者に尽くし、同僚と張り合う』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
※登場人物の名前は仮名です。
物腰が柔らかく、おっとりとした百合子先生
ある年、一人の麻酔科医が研修にやってきた。女医である。ところがよくその先生のことを観察してみると、目尻に少しシワがあり、歳が行っている感じである。ナースたちはその先生の名前を聞いて、百合子先生と呼んだ。
物腰が柔らかく、おっとりとしていて、言っては何だが、お母さんという感じである。
なぜ、研修医なのに年齢が高いのだろうかと千里は疑問に感じた。でも確か、医学部というのは、いったん大学を卒業した人が社会人を経てから試験を受けて入ってくることがあると聞いたことがある。もしかしたら百合子先生もそういう経歴なのかもしれない。
一緒に仕事をしているうちに、千里は百合子先生が好きになった。先生なのに、偉ぶらない。話しかけてみると、言葉が丁寧で謙虚に見える。
(ああ、この先生ならば何でも質問できるな)
千里の直感がそう言っている。
オペ室に慣れると、あんがい基本的なことを理解していないことに気づいたりする。麻酔科の副部長の先生とかに質問したら「お前、そんなことも知らないの?」とバカにされそうでイヤ。でも百合子先生なら優しく教えてくれそうだ。
自分のペースを乱さない先生だった
「先生、なんで子どもに気管内挿管をするとき、カフ(固定用の風船)を膨らませないんですか?」
「あ、それはね、子どもは気管の粘膜が弱いから、カフを膨らませると炎症が起きてむくんだりするからね」
「そうなんですね」
「長期の人工呼吸器管理をすると、抜去困難といって気管が狭くなってしまうの。そうするとオペで狭い部分を切除して、気管と気管を縫うの」
千里がどんなことを聞いても百合子先生は答えてくれた。この先生は勉強しているなと感心した。
一日の仕事が終わると、医師も看護師もラウンジでくつろぐ。みんなでワイワイやっているうちに「飲み行こう」という流れになる。だけど、百合子先生はいつもその中にいなかった。仕事が終わるとさっと帰ってしまうのだ。自分のペースを乱さない先生だった。
千里は百合子先生ともっと話をしてみたいと思った。朝、オペ室で一緒になると「いつか飲みに行きましょう」と声をかけた。先生は「うん」とうれしそうだった。だが機会はなかなか訪れない。
ある朝、思い切って「今日、仕事が終わったらみんなで飲みに行きましょうよ」と誘った。百合子先生は「そうね。行きます」と言ってくれた。