千人規模で賑やかに行われた御堂建立
堂の上を見上ぐれば、たくみども二三百人登りゐて、大きなる木どもには太き綱をつけて、声を合はせて、「えさまさ」と引き上げ騒ぐ。御堂の内を見れば、仏の御座造り耀かす。板敷を見れば、木賊、椋葉、桃の核などして、四五十人が手ごとに居並みて磨き拭ふ。檜皮葺、壁塗、瓦作なども数を尽くしたり。また年老いたる法師、翁などの、三尺ばかりの石を心にまかせて切りととのふるもあり。池を掘るとて四五百人おりたち、また山を畳むとて五六百人登りたち、また大路の方を見れば、力車にえもいはぬ大木どもを綱つけて叫びののしり引きもて上る。賀茂川の方を見れば、筏といふものに榑、材木を入れて、棹さして、心地よげに謡ひののしりてもて上るめり。
(堂の上を見上げれば、大工どもが200〜300人登って、大きな木材には太い綱を巻いて、「えっさ、まっさ」と声を合わせて賑やかに引き上げる。御堂の中を見れば、仏像を置く台座を造り輝かせている。板敷を見れば、40〜50人が手に手に木賊、椋の葉、桃の種などを持ち、並んで磨きたてている。檜皮葺き、壁塗り、瓦作りなども数え切れない。また老法師や翁など、力仕事は無理でも、三尺(約90cm)ほどの石を思い思いに切り調える者もいる。池の掘削には400〜500人が底に下り立ち、また築山の造作には500〜600人が上に登り立つ。また大路の方を見れば、力車にとんでもない大木を何本も置き綱を巻き付け、大声で叫んでは引いてくる。賀茂川の方を見れば、筏というものに製材した板や材木を入れて、流れに棹をさし、心地よさそうに大声で歌いながら上ってくるのが見える)
(『栄花物語』巻十五)
国家鎮護と万民救済を祈る大規模な寺に
仏を安置するための仏壇造りには、道長、頼通を筆頭に、公卿・殿上人から僧・下級官人・庶民までが力を合わせたとは、当時の実務官僚・源経頼が記すところである(『左経記』寛仁4〈1020〉年2月15日)。思えばこうしたパフォーマンスは、若い時から道長が得意とするところだった。
御堂はやがて無量寿院と名付けられたが、それでは終わらず講堂や金堂が次々と造営されて、治安2(1022)年には名が法成寺と改められた。無量寿院は道長の極楽往生を祈る阿弥陀仏の寺だったが、法成寺は金色の大日如来像を安置し国家鎮護と万民救済を祈る寺だった。これはもう、個人の寺ではない。
道長は一体どこまで手を広げれば気が済むのか。もともと信仰は篤かったが、出家してからの道長は、まるで熱に浮かされでもしたように大掛かりな仏事にのめりこんだ。