和解金と特許料で「半導体は金がかかる」
そのため、当然のこととして日本企業各社は大いに反発し、東芝や日立などは逆提訴の構えを見せたが、結局のところ250億円という巨額の和解金を払って和解が成立することとなる。
だが、これで終わらないのがテキサス・インスツルメンツである。今度は一般のIC技術と異なり「半導体基板に互いに距離的に離間して配置された複数の回路素子を導体として被着して配線した半導体回路」として定義されるキルビー275特許を使用するには本来のIC技術(これが狭義の「キルビー特許」)の実施権の取得が前提になるとの論法であった。
そして、またしても東芝、沖電気、松下電子、NECがそれぞれ毎年百数十億円から百億円前後を払わされるようになったのであるから、これら企業が「半導体は金がかかる」と思わされてしまったことになる。
日本のシェアを下げることが努力義務に
ただし、この時、業界4番手の富士通のみは裁判で争う覚悟を決め、実のところ、1994年に東京地裁が、そして2000年に最高裁が富士通側を勝利させている。当時はアメリカとしっかり闘う姿勢を持った日本企業があったということになる。
と言っても、これらが「日米半導体摩擦」の全てではなく、これら企業間の紛争と並行して政府間で2度にわたったぎりぎりの半導体交渉が行われる。
その最初のものは1986年の日米半導体協定であるが、「外国半導体企業の日本市場へのアクセス拡大」とその合意の裏にその市場シェアを20%にまで引き上げるという密約があったためにその後の紛争を再度招く。
そして、そのために再開された日米交渉では「20%を1992年までに達成する」との文言を協定本文に書き込まされるに至っている。日本政府が日本企業のシェアをわざと下げるべく努力する義務を規定した協定である。1991年のことである。
ともかく、こうしてテキサス・インスツルメンツは巨額の収益を得て後の投資をすることができるようになり、逆に日本企業は体力を削がれてしまっている。そして、最後はその「20%」を達成するために日本が大量に購入したMPU(マイクロプロセッサー)でインテルが急上昇することとなるのである。先の図表1はそのことを如実に表している。
1992年までに外国企業の市場占有率20%を実現するにはそうするしかなかったからであり、その後、アメリカ企業のトップにインテルが躍り出た大きな要因となっている。日本半導体企業の凋落と米企業の躍進がこのようにして工作されたのである。