晩年の道長にとって「目の上のこぶ」
道長は土御門殿の東に無量寿院(のちの法成寺)を造営したが、圧倒的な権威を笠に、諸国の受領層に造営を負担させている。そして、政治の実権こそ、関白になった頼通に譲ったものの、依然として影響力をおよぼし続けた。
だが、彰子も負けてはいなかったのである。道長が亡くなる前年の万寿3年(1026)には出家し、法名を清浄覚としたが、太皇太后ではあり続けた。また、道長の姉だから叔母であり、一条天皇の母だから義母だった東三条院詮子の先例にならって上東門院と称した。
そして、道長が亡くなると、最高位の尼であり、最高位の后であり、女院であるというとんでもない地位の女性として、道長に代わって天皇家と摂関家のそれぞれに君臨し続けることになった。晩年の道長にとって、目の上のこぶであり、こえたかったが最後までこえられなかった一線が彰子だった。