母后が高御座に登った意味
後一条天皇の即位式を描いた場面で彰子は、この儀式でもっとも大事な装置である高御座に、天皇とともに着座していた。これは史実であり、母后が高御座に登った史上初の例だとされている。彰子はこうして国母になったが、高御座に登ったということからも、これまでの国母にない特別な高みに到達したといえる。
「光る君へ」第44回では、それから2年半以上のち、道長が倫子に産ませた三女の威子(佐月絵美)が後一条天皇のもとに入内して中宮になったときの様子まで描かれた。
寛仁2年(1018)10月16日、威子の立后の儀が行われ、これで道長の3人の娘が、3つの后の座を独占することになった。その晩、道長の私邸である土御門殿で行われた宴で、かの有名な「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば」の歌が詠まれたのだが、「光る君へ」では、妍子も威子も表情が浮かない。道長があいさつをしても厳しい表情を崩さない。
しかし、太皇太后となった彰子だけは違った。「頼通がよりよき政を行えるよう願っておる」と道長に穏やかに声をかけ、ほかの后たちとはまったく違う存在の重みを見せつけていた。
道長さえもが遠慮する存在に
「光る君へ」における描写には、もちろん、ドラマとしての脚色が加えられているが、彰子が次第に、「この世をば 我が世とぞ思ふ」と詠む道長さえもが遠慮する存在になっていったのは、まちがいない。まず、彰子が力を得ていった経緯を考えてみたい。
「光る君へ」では、彰子も妍子も「父上の道具」「父上の犠牲」という言葉を使うが、彰子がそうした状況から脱したのは、寛弘8年(1011)6月、一条天皇が32歳で亡くなり、「父上の道具」として子供を産む義務から解放されたときだった。
一条天皇に代わって即位したのが、次妹の妍子が嫁いでいた三条天皇だった。榎村寛之氏は「この実妹は、彰子にはかなり気になる存在だったのではないかと思う。三条天皇は地味とはいえ、『正当な天皇』だからである」と、妍子についての興味深い見解を示している(『女たちの平安後期』中公新書)。
話は第62代の村上天皇までさかのぼる。その嫡男は63代の冷泉天皇で、64代の円融天皇は冷泉天皇の弟であって、冷泉天皇の皇子が成長するまでの中継ぎとみられていた。事実、次の65代として即位したのは冷泉天皇の第一皇子、花山天皇だったが、次の66代には円融天皇の皇子、一条天皇が就いた。
つまり、円融天皇が中継ぎを務めたのを機に、「両統迭立」といって、冷泉系と円融系の2つの皇統から、交互に天皇を出すことになったのだ。とはいっても、冷泉系が正統であることに変わりはない。だから67代となった冷泉天皇の皇子の三条天皇は、先代の一条天皇よりも正統だということになる。
しかも、三条天皇の兄の花山天皇は、母親が藤原兼家の兄、伊尹の娘で、道長との直接のつながりはないが、三条天皇の母は兼家の娘、すなわち道長の姉の超子。道長との血縁という点でも正統だった。「三条と道長の関係が修復できれば、道長の権力は村上嫡流の天皇を抱き込むことになるので、一条を介する以上に強くなるのである」と、榎村氏は記す。