権利と義務は表裏一体。子どもを守る義務の観念が薄い日本
そして権利と義務は“表裏一体”であり、権利を主張するだけではない義務の重要性を説く教育も薄いと、紀藤弁護士は続ける。
「親は子どもを監督する権利はありますが、塚原さんの父親のように『しつけの一環』だとか言って娘に性虐待をしていいわけではない。子どもを安全に生活させる義務があるので、虐待はその義務を無視した行為といえます。カルト宗教もそうです。信仰の自由があるからといって、自分の信仰を子どもや他者に押し付けていいわけではありません。自分以外の人間の幸せな生活を守る義務があるんです。逆にいえば、義務を守るからこそ権利を行使できるんです。世の中にはびこるセクハラ、パワハラ、虐待などは、すべて義務の意識が抜け落ちているから起きていると言ってもいいでしょう」
と紀藤さんは解説する。
たえさんの父の場合、娘や息子の人権を尊重するという義務をまったく無視。自分の所有物とみなし、歪んだ支配欲を性虐待として具現化した。
もちろん、こんな親はごく少数派だし、多くの親はわが子を愛し慈しんでいる。
しかし、その事実もまた、たえさんを傷つける一因に。
「どうして自分は一般の親のように愛されなかったのか、どうしてこんなに酷い仕打ちを受けねばならなかったのか? どうして弟は自分の命を断たなくてはならなかったのか……。その思いが年々強くなります。それに鬼畜の親から性虐待を受けた自分の体を、汚いとも思ってしまうんです。ただの“親ガチャ”で済まされない、自分たちの運命を呪いたくなります。でも、こんな思いをするのは私で終わりにしたいんです」
酷い中傷コメントを投げられるとしても、自分の意見をXに投稿し続けたり、講演会にも積極的に出たり、自民党議員の前でも性加害の実態を語ったりする。
話すうちに、当時の恐ろしい虐待のシーンがフラッシュバックすることも。そんなツラい思いをしてでも、告発や啓蒙活動を続けたいと語る。
「取材を受けて記事が出ることも、落ち込みがちな自分を奮いたたせることにつながります」(たえさん)
取材時も、おしゃれな服を身につけ、ヒールを履いて、きちんとメイクをして現れたたえさん。
「これは戦闘服なんです。『被害者は被害者らしく地味にしてろ』なんて言われますが、そんなのナンセンス。私は着たい服を着るだけです」ときっぱり。
紀藤さんが、たえさんを「ジャンヌ・ダルク」と呼ぶわけがわかった気がした。