現時点でできることはないか

「それはよかったですね。もうひとつ、現時点で吉岡さんにできることがあるかについてはどうだったでしょう?」

「聞いてみましたが、現時点でできることはほとんどないそうです。私の場合は再発予防の化学療法を終えていますし、ホルモン療法などは私のがんには効果がないので、さらに行う治療もないようでした」

「日常生活に必要な工夫もないのでしょうか」

「そういったこともほとんどありません。極端な不摂生で体重がぐっと増えるのは良くないそうですが、あまり神経質になりすぎず、普通の生活をしていいとのことでした。生活の制限がないのはうれしい一方で、自分でできることがないのは残念です」

「でも、できることはすべてやったと確認できたのはよかったのではないですか?」

「たしかにそうです。ただ、これから“再発する2割に入ったらどうしよう”という不安と向き合わなければなりません。半年に1回の検査を受けるたびに、不安と恐怖でいっぱいになりそうです」

「2割の確率なら、逆に言えば5人に4人は再発しないとなりますが、一方で2割という数字も無視はできませんね。その不安との向き合い方を一緒に考えましょう」

病室の医師と患者
写真=iStock.com/FG Trade
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不安と向き合うための工夫

「吉岡さんが、不安と向き合うためにできる工夫は何かあるでしょうか」

「病気のことはなるべく考えないようにしているのですが」

「考えないようにするやり方はうまくいっていますか」

「あまりうまくいっていません。考えないようにしようとしても、不安な気持ちでいっぱいになってしまうこともあります」

「意外かもしれませんが、考えないようにするのは役に立たないどころか、むしろ有害だと心理学の実験でも示されているんですよ。有名な“シロクマ実験”をもとに説明しましょう。

この実験では、参加した被験者を3つのグループに分けて、シロクマの1日を追った同じ映像を見てもらいます。その後、各グループに次のような指示を出します。

・シロクマのことを覚えておく。
・シロクマのことは考えても考えなくてもいい。
・シロクマのことは絶対に考えない。

どのグループが、いちばんシロクマのことを覚えていたと思いますか?」

「これまでの話の流れだと、“絶対に考えない”という指示があったグループでしょうか」

「そのとおり。考えないようにすればするほど、かえってそのことが頭から離れなくなるという逆説的な現象が起きてしまうのです」

この実験を行った心理学者ダニエル・ウェグナーは、結果をもとに「皮肉過程理論」を提唱しました。その理論によると、「考えないように」との指令を脳に与えると、「考えないように」する対象を同定〔対象が何であるかを判定すること〕しようと、脳は意識します。すると、かえってその対象について考えてしまうという皮肉な結果となるのです。

行動を変えることで不安を小さくできるがんなどの病気に限らず、こころに心配事があるとき、「そのことを考えないようにする」のは一般的に逆効果とされます。吉岡さんとの対話を続けながら見ていきましょう。