「興銀は嘘をついた」結果の三行統合
一九九八年一月十八日、日本道路公団の外債発行幹事証券会社の選定に際して野村證券から贈賄があったとして、大蔵省OBの公団経理担当理事と野村證券元副社長らが逮捕された。
これを皮切りに大蔵省接待汚職事件が火を噴き、同年六月にかけて東京地検特捜部による大蔵省解体が進んだ。その後、十月には同じ長信銀の一角である日本長期信用銀行が、十二月には日本債券信用銀行がそれぞれ一時国有化された。
山田の上司が「もっと新しいことをやろう」と言ったのはこの頃だが、きっと興銀全体を覆っていた暗いムードから少しでも距離を置き、バンカーとしての仕事をまっとうしようとしたからだろう。
「営業部に一班、二班、三班ってあったんですよ。一班とか二班とかはピカピカの会社の担当。僕は微妙な会社を担当する班でした。上司も微妙な人。ピカピカからは少し外れているみたいな。でもめっちゃ優秀。周りは『山田、お前はあの人の下で大変やな』とか言ったけれど、僕は全くそうは思わんかった。あの人はほんまの興銀マンやと思った」
一九九九年八月、興銀は富士銀行、第一勧業銀行との経営統合を発表した。
それは興銀が世間に嘘をつき続けた結果だと山田は考える。
「僕は嘘をつかへんけど、興銀は嘘をついた。だから経営統合せなならんかったんや。ケチのつき始めは尾上縫事件やろな」
(後編へつづく)