「政治的」な事情

倉本氏によれば、全編が54巻におよぶ『源氏物語』のためには、大まかに計算して617枚の料紙が必要で、数え方によっては2355枚にもなるという。それ以外にも、下書き用の紙が必要なら、書き損じもあっただろう。当時、紙は非常に貴重かつ高価だった。

だから、倉本氏は次のように書く。「いったい中級官人の寡婦にして無官の貧乏学者である為時の女である紫式部に、これほどの料紙が入手し得たものであるか。(中略)こういう状況から、紫式部はいずれかから大量の料紙を提供され、そこに『源氏物語』を書き記すことを依頼されたと考える方が自然であろう。そして依頼主として可能性がもっとも高いのは、道長を措いてはほかにあるまい」(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。

では、なんのために道長は、紫式部に『源氏物語』を書かせたのか。

倉本氏はそのねらいについて「物語好きな一条が『源氏物語』のつづきを読むために彰子の御在所を頻繁に訪れ、その結果として皇子懐妊の日が近づくというものである」と書く(前掲書)。道長がみずからの権力を安定させるために、彰子に皇子を生ませたいという強い希望をいだいていたことは、いうまでもない。

実際、『紫式部日記』には、一条天皇が『源氏の物語』人に読ませ、聞いていたという記述がある。背景には、「光る君へ」で描かれたのと同様の、「政治的」な事情があったのである。

十二単
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いつから『源氏物語』を書いたのか

紫式部は『源氏物語』をいつから、どこで書いたのか。

彼女はあるときから、中宮彰子のもとに女房として出仕している。『紫式部日記』の寛弘5年(1008)12月29日の項に、はじめて出仕したのも同じ日と書いているので、その何年か前ということになるが、この時点で宮仕えにすっかり慣れきっているというので、寛弘4年(1007)ではなさそうだ。また、寛弘2年(1005)は11月に内裏が消失しており、12月29日はまだ慌ただしい最中だっただろうから、寛弘3年(1006)とするのが妥当ではないだろうか。

むろん、紫式部の出仕が、『源氏物語』などで文才を買われた結果であるのは疑いようがない。したがって、出仕前には書きはじめていたことになる。

だが、出仕せずに書ける内容は限られていただろう。倉本氏は「『源氏物語』が、じつは王権と宮廷政治の物語でもあり、数々の政治史的要素や後宮闘争を組み入れた作品であることは、少し読み込めば容易に理解されるところである」と書く(前掲書)。そういう内容が、出仕して宮廷の様子を観察することなく書けるはずがない。

そこで、出仕前に光源氏の生い立ちや、藤壺および紫の上との関係、光源氏の須磨への配流と帰還くらいまでが書かれ、残りは出仕後に書かれたのではないか。そんなふうに考えられている。