平安最大の対外危機「刀伊の入寇」
その三条天皇は寛仁元年(1017)に亡くなる。翌年には、姉の定子が産んだ敦康親王も世を去った。すでに兄も亡く、後ろ盾はまったくなくなっていたが、そんな隆家の足下で緊急事態が発生した。寛弘3年(1019)3月から4月にかけ、女真族と思われる海賊が対馬や壱岐を襲撃したのち、九州沿岸に押し寄せたのである(刀伊の入寇)。
このとき隆家は、九州中の豪族に召集をかけ、彼らを率いて応戦し、敵に多大な損害を与えて撃退している。「光る君へ」で安倍晴明が、隆家について「いずれあなた様の強いお力となりまする」と予言したのは、このことを指したものと思われる。
その年末、隆家が太宰権帥を辞して帰京すると、その功績から「大臣、大納言にも」取り立てようという声が上がったという。しかし、「御まじらひ絶えにたれば(内裏への出仕を控えて人と交流をしていなかったので)」、実現しなかったという(『大鏡』)。
その後、長暦元年(1037)からふたたび太宰権帥を務め、長久5年(1044)正月、66歳で死去している。往生際が悪い伊周は負の運勢を引きずり、割り切った隆家は国家に貢献した。子孫についても、伊周の嫡男の道雅は問題行動を重ねた挙句、没したのに対し、道隆の家系は大臣こそ排出しなかったが明治維新まで続いた。