往時の権威を取り戻しつつあったが…

法皇に矢を射たことが、兄弟が自滅して配流され、中関白家が没落することにつながったわけだが、定子が死去する前年である長保元年(999)12月、一条天皇の第一皇子である敦康親王を産んだことは、兄弟にとって大きな幸いだった。

藤原伊周
藤原伊周(画像=中央公論社『日本の絵巻16 石山寺縁起』/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

中関白家はやがて春宮(皇太子)になる可能性が高い敦康親王の外戚である。一条天皇としては、伊周と隆家を皇子の外戚(叔父)にふさわしい立場に戻したい。また、最高権力者である左大臣道長も、兄弟に恨みを持たれ続けたくはない。

伊周は長保3年(1001)閏12月、大納言相当の正三位に復位。翌長保4年(1002)には、「大臣の下、大納言の上」と定められ、朝廷に会議に参加することになった。藤原実資が『小右記』に「前例のないこと」と不満げに書くなど反発は大きかったようだが、政治家として本格復帰した。

むろん、一条天皇と道長は、隆家に対しても同じ意識をいだいた。長保4年(1002)には失脚する前の官職である権中納言に復帰し、寛弘4年(1007)には従二位に叙された。

弟・隆家が九州へ向かったワケ

その後、道長の長女である中宮彰子が敦成親王を産むと、伊周は追い詰められて行動がおかしくなり、呪詛事件に巻き込まれるなど自滅していく。

一方、隆家は「光る君へ」での「私は過ぎたことは忘れるようにしております」という発言が象徴するように、中関白家の再興に固執しなかったことが幸いしたといえよう。兄が政治生命を断たれた寛弘6年(1009)には、中納言へと出世した。

ただ、隆家は兄と違って、中央での権勢ばかりに価値を見いだすタイプではなかった。寛弘7年(1010)、伊周が没したのち、隆家は長和元年(1012)末ごろから、外傷が原因とされる眼病を患った。そして、太宰府に唐人の名医がいるというので、長徳の変ののち、兄はそこに配流されるのを死ぬほどいやがった太宰権帥への任官を望むようになった。

これには道長は反対している。なんだかんだいって中関白家にはいまなお声望がある。そのなかで隆家は、すでに記したように好戦的で、別の言葉でいえば、性悪を意味する「さがな者」だと評判だった。そんな人物が九州の在地勢力と結合したら危険だと、道長は考えたのである。

しかし、同じ眼病に悩む三条天皇が同情し、長和3年(1014)11月、太宰権帥に任じられている。