メカのデザインから撮影・編集まで一人でこなす

ゲイル・アン・ハードは大学を出た後、コーマン門下に入り、『モンスター・パニック』(80年)の現場でアシスタント・プロデューサーをさせられていた。

「半魚人が裸の女性を襲ういやらしいシーンの撮影だったんで見てられなくて、セットから逃げ出したら、せっせとミニチュアを作ってる男の子を見たの。ジムだったわ」

しかしキャメロンはただのミニチュア職人ではなかった。メカを自分でデザインし、イメージボードを描き、マットペインティングまで描き、フロントプロジェクションで撮影し、編集する。すべてを一人でコントロールできた。

キャメロンとゲイル・アン・ハードは「いつか他人の映画の下働きじゃなくて、自分たちの映画を作るんだ」と夢を語り合い、そのうちにどんどん親密になっていった。キャメロンはコーマンのスタジオのあるヴェニス・ビーチにアパートを借り、そこに寝泊りすることが多くなった。

監督第一作は「何もかも最低だった」

『宇宙の7人』の次に、キャメロンは『ギャラクシー・オブ・テラー/恐怖の惑星』(81年)の特撮を任された。切られた腕にうじがたかるシーンの撮影は今や伝説になっている。キャメロンは蛆では小さすぎるので代わりにミミズを使ったが、思ったようにうごめかなかった。そこでミミズに電気を流した。「スタート!」でカメラが回るとミミズがのたうって、「カット!」の声で止まった。

「あれを見て、みんな驚いて、『ミミズに芝居させることができるんだから、俳優の演出もできるだろう』ということで監督を任されたんだ」

ジェームズ・キャメロン監督
ジェームズ・キャメロン監督(1986年)(画像=Towpilot/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons

夢にまで見た監督第一作は『殺人魚フライングキラー』(81年)。ジョー・ダンテ監督のヒット作『ピラニア』(78年)の続編で、今度は翼の生えた魚が空を飛んで美女を襲うのだ。

「プリプロダクションはすでに終わっていて、僕は現場に行って演出するだけだった。でも、脚本もクリーチャーも何もかも最低だった」

プロデューサーは『エクソシスト』(73年)の亜流『デアボリカ』(73年)、『アマゾネス』(73年)に空手ブームをくっつけた『空手アマゾネス』(74年)、『JAWS/ジョーズ』(75年)の亜流『テンタクルズ』(77年)など、二番煎じ映画で悪名高いイタリアのオヴィディオ・G・アソニティス。彼はキャメロンが撮影したフィルムを自分の住むローマで勝手に編集して関係のない裸の女性の映像などを挟み込もうとした。