ソ連に対する共同防衛のためNATOが発足
「これで米、英、仏が西ベルリンから撤退するだろう」、ソ連側はそう期待したが、アメリカは西ベルリン市民と駐留部隊のため、大々的に物資の空輸を行なった。その回数は延べ27万回、輸送量は1949年春には1日あたり8000トンにも及んでいる。結局、米ソ両国の交渉を経てソ連が譲歩し、1949年5月にベルリン封鎖は解除された。
この直後、米、英、仏の占領地にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立し、同年10月には、ソ連占領地でドイツ社会主義統一党が政権を担うドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立した。東西ドイツはヨーロッパにおける冷戦の最前線となる。
この間にイギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの西欧5カ国は、ソ連に対する共同防衛のため、1948年3月に西ヨーロッパ連合条約を結んだ。翌年には、これをさらに拡大させて、アメリカ、カナダ、イタリアなど計12カ国が参加する北大西洋条約機構(NATO)が発足する。
こうした国際的な冷戦の進行は、同時期の日本にも影響を与えた。敗戦後の日本はアメリカの占領下で農地解放、財閥解体、女性の政治参加などの民主化が進められたが、アメリカは共産主義陣営の拡大を懸念して占領統治方針を改め、労働運動や共産党員の活動を厳しく取り締まるようになる。その反面で、軍国主義的と見なされて公職追放された元軍人や官僚の復権を許した。こうした一連の措置は「逆コース」と呼ばれる。
スパイ映画で有名なCIAもこのとき発足した
アメリカの西部劇には、ときおり、住民たちが保安官に頼らず自力で犯罪者を捕らえて制裁を加える場面が出てくる。このように、アメリカは開拓時代から政府機関の力が弱く、自由放任と地方分権を基本とする国家だった。ところが、冷戦の進行によって、共産主義に対する国際戦略のため、大統領府への権力集中が進む。
1947年7月、国家安全保障法が成立した。これにより、外交政策と国防政策を連動させるべく、大統領、副大統領、国務長官(諸外国での外務大臣に相当)、国防長官が参加する国家安全保障会議(NSC)が設置される。また、陸軍と海軍、そして大戦後に成立した空軍を統合する国防総省と統合参謀本部が設立された。
スパイ映画で有名な中央情報局(CIA)も、このとき発足した。第二次世界大戦中の諜報機関である戦略事務局(OSS)は終戦直後に解散していたが、その人員や技術を引き継ぐ形で組織が編成された。アメリカでは陸軍、海軍、国務省がそれぞれに諜報機関をもっていたが、CIAはそれらを統合する大統領直属の機関だ。