第二次世界大戦以前のソ連は飛躍的な工業の発展を遂げた一方で、農業集団化を進めたことにより大飢饉が起きていた。その被害が深刻だったのがウクライナだ。佐藤優監修『米ロ対立100年史』から紹介しよう――。

※本稿は、佐藤優監修『米ロ対立100年史』(宝島社)の一部を再編集したものです。

ウクライナ国旗
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空前の好景気から「世界恐慌」へ

いつの時代も、投機が過熱すればいつかはバブルが弾ける。1920年代、空前の好景気を謳歌していたアメリカだが、1929年10月にニューヨークの株式市場で株価の大暴落が起こった。アメリカ国内では多くの企業が次々と倒産し、工業生産も農産物の海外輸出も振るわなくなる。その影響は各国に連鎖し、「世界恐慌」を引き起こした。

深刻な不景気は長く尾を引き、1933年には失業率が25%に達する。世界恐慌の広がりは資本主義の欠陥を知らしめる形となり、労働運動が激化して共産主義の支持者も増加した。こうしたなか、同年には民主党のフランクリン・デラノ・ローズヴェルトが、状況打開のための「ニューディール(新規まき直し)政策」を唱えて大統領に当選する。

この政策の中身は、国家による金融機関の監督と企業への融資、テネシー川流域開発公社(TVA)をはじめとする公共事業による雇用の拡大、農産物の供給過剰を避けるための生産調整、失業保険や高齢者年金といった社会保障の充実などだ。おおむね社会主義的な政策といえるもので、経済学では修正資本主義とも呼ばれる。

商売にイデオロギーは関係なかった米国とソ連

とはいえ、アメリカは開拓時代から国家権力に頼らず個々人が銃で武装して身を守ってきたように、「何事も自力でやるべし」という自己責任思想が強い国だ。また、アメリカは各州それぞれが小さな独立国のように強い権限をもつ体制ながら、ニューディール政策は全国一律に連邦政府の影響力を及ぼすものであったため、ローズヴェルト政権に強く反発する政治家や企業も少なくなかった。だが、企業や公務員を連邦政府の法令によって動員するニューディール政策は、のちの戦時体制の下地となる。

対外政策では、アメリカを含めて各国が「ブロック経済」を導入した。たとえばイギリスは、自国とインドやオーストラリアなどの植民地間でのみ関税を低く設定し、外貨の流出を抑えた。フランスや日本も同様の政策を採り、アメリカはドルが流通する中南米諸国との結び付きを強め、ドルブロックを形成した。

1933年11月にアメリカはようやくソ連と国交を結ぶ。ブロック経済で取引先が限られるなか、ソ連市場への参入を図ったのが大きな理由だ。

共産主義の牙城に商品を売り込めるのかと思われるところだが、じつは以前から民間企業のソ連進出は行なわれていた。ソ連は大規模な農業開発を進めるためにフォード社からトラクターを3万台以上も輸入したうえ、トラックや乗用車のライセンス契約も結び、同社のコピー製品を生産した。また、ダムや水力発電所などを建設するため、顧問としてアメリカから技師を雇い入れていた。こうした事情もあり、アメリカの財界からも米ソ国交樹立を求める声は大きかった。両国とも商売にイデオロギーは関係なかったのだ。