米国は19世紀から長らく孤立主義を採っていた。軍事面や諜報活動における海外への積極介入に転じたのは、第二次世界大戦後である。どんな背景があったのか。佐藤優監修『米ロ対立100年史』の一部を紹介しよう――。

※本稿は、佐藤優監修『米ロ対立100年史』(宝島社)の一部を再編集したものです。

ソビエト連邦旗と米国旗
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「共産主義の拡大を封じ込めなければならない」

「共産主義の拡大を封じ込めなければならない」――アメリカ政府内では、このような認識が急速に広がる。きっかけは1946年2月、モスクワのアメリカ大使館に赴任していた外交官のジョージ・ケナンが、本国に送った長文の電報だ。ケナンは東欧で急速に勢力を拡大するソ連の動きを正確に分析して、政府に警告した。

この頃、東欧諸国がソ連の実質的な支配下となるなか、ギリシアとトルコでもソ連の支援を受けた共産党が急速に勢力を伸ばしていた。第二次世界大戦中、イギリスはヨーロッパ各地で反ファシズムかつ反共主義の勢力を支援していたが、枢軸国との戦いに多くの資金や人材、武器を投入したことで、国力に余裕がなくなっていた。そこで、反共主義勢力を支援する役割は、アメリカに引き継がれることになる。

「トルーマン=ドクトリン」と冷戦の本格化

1947年3月、アメリカのトルーマン大統領は、ソ連に対抗するため、4億ドルの巨費を投じてギリシアとトルコへの経済的・軍事的な援助を行なうことを議会で訴える。トルーマンは、自由主義に対する共産主義の脅威を強調した。これには、無神論を掲げる共産主義が信教の自由を脅かすことも含まれ、アメリカ国内のキリスト教会関係者の多くは、トルーマンの方針を強く支持した。こうして確立されたソ連との対決姿勢は「トルーマン=ドクトリン」と呼ばれ、ここから冷戦が本格化する。

同年6月、国務長官ジョージ・マーシャルの主導によって、アメリカが戦後のヨーロッパ諸国の復興に大規模な援助を行なう「マーシャル=プラン」(欧州復興計画)を発表する。

100億ドル以上もの資金が投じられたが、支援金によってヨーロッパ諸国がアメリカの機械類や農産物を購入する形になり、アメリカ経済にも恩恵をもたらすものだった。ソ連とその勢力圏の東欧諸国は参加を拒否し、東西の分断が確定する。

旧枢軸国のドイツも米、英、仏の占領地域はマーシャル=プランの支援対象となる。問題はソ連が占領する東部地域のなかにあるベルリンで、市街の西部のみが米、英、仏の占領する「飛び地」となっていたことだ。1948年4月、ソ連は西ベルリンと外部地域の境界線に検問を設置して交通を制限し、封鎖された西ベルリンは陸の孤島と化した。