祖父、母、叔父を亡くし東宮にはなれず
皇位から排された敦康親王に、チャンスがなかったわけではない。実父一条天皇の譲位のおりがその一つ。二つ目は三条天皇譲位の時期であり、最後が後述の小一条院(敦明親王)の東宮退位の段階だ。けれども、いずれもが道長の力が作用して、機会を得られずじまいで、寛仁2年(1018)、わずか20歳で死去した。
中関白家の期待を担いながら、不運な皇子への同情も厚く、『枕草子』はもとより、『栄花物語』にも、その様子が詳しく語られている。この敦康の境涯については、養母の立場で幼少時より世話をした彰子も、道長とは意見を異にしていた。彼の皇位継承には彰子も前向きだったからだ。
『権記』(藤原行成の日記・寛弘8年〈1011〉5月27日条)には、その彰子の敦康親王への東宮実現に向けての意見が記されていた。『栄花物語』からも敦成親王の立太子を考える父道長との間に、微妙な齟齬があったことがうかがえる。そこには一条天皇の意向を忖度する彰子なりの気配りも見える。
結果的には敦康親王は、具平親王(村上源氏)の婿となり、安全圏に身を置くこととなった。具平親王家は頼通と婚姻関係を有し、そうした形で自己の存立を確保したともいい得る。
それにしても中関白家の不幸は、敦康親王という玉を手中にしながら、東宮擁立のその時期に、祖父道隆、母定子、そして叔父伊周といった人々を失ったことの不幸が大きかった。
敦明親王は道長の娘と結婚し、協調路線
2人目が敦明親王だ。三条天皇の第一皇子で、母は済時の娘娍子。正暦5年(994)の誕生とされる。13歳で元服し、長和5年(1016)父三条の譲位後即位する、後一条天皇の東宮となった。しかし、敦明は1年有余で東宮を辞退する。東宮辞退の一件は、道長のプレッシャーにつぶされたともいい得る。
院号(小一条院)を得て太上天皇に准ずる待遇を得ること、さらに道長の第二夫人明子所生の寛子との婚姻を実現することで、敦明は自身の立ち位置の保全をはかった。道長との対抗・対立よりは、協調の方向を選択したことになる。彼の場合も母は道長の娘ではなかった。