30歳までに3回退職
浅羽さんは1966年、福岡市内で生まれた。中学1年生の時、自転車で北九州を走ってからひとり旅にはまり、中高時代、そして西南学院大学に入ってからもあちこちに出向いた。
1990年、大学を卒業。寝ても覚めても旅のことばかり考えていた学生の就職先は、東京の旅行会社だった。大学卒業後すぐに結婚した浅羽さんは妻を連れて上京し、不動産業者に勧められた千葉県松戸市のアパートで暮らしながら、新入社員として働き始めた。しかし、毎日終電で帰宅する生活に嫌気がさし、4カ月で退職。
「次はもっと早く帰れるところがいい」と転職したのはオーストラリアの肉メーカー。ところがその会社がアメリカの同業他社に買収されることになり、入社して2年で再び転職する。
3社目は、光ファイバーの部品を作っている松戸の町工場。就職情報誌に掲載されていた「海外営業」という言葉に惹かれた。急成長していたその会社の営業は、「楽しかった」と振り返る。ところが、海外出張の合間に現地を堪能するうちに、旅好きの虫がうずき始めた。
「仕事中心だから、現地であまり時間が取れなくて。だんだん、もうちょっと旅行したいなと思うようになって、最終的には、これはもう会社をやめて旅に出るしかないなと(笑)」
同じく旅好きな妻と「長男のオムツが取れたら旅に出よう」と話し合い、息子が3歳になる頃、退職届を提出。浅羽さん30歳の1997年2月、家族で世界一周の旅に出た。
異色のもんじゃ焼き店で修業
世界約20カ国を巡り、日本を発ってから約1年後に帰国。間もなくして、名古屋にひとりで住み始めたのは、フィジーでの出会いがきっかけだ。フィジーの海岸沿いの安宿にいた時、サーフボードを抱えた日本人のグループに会い、一緒にご飯を食べることになった。そのうちのひとりが、名古屋でもんじゃ焼き店を経営しているOさんだった。
「お前、帰ったらなにやるんだ?」
「まだわかんないです」
という会話をきっかけに、「日本に帰ったら俺のところに来て、もんじゃ焼きをおぼえればいいじゃん」と誘われた。もらった名刺を旅の間も持ち歩いていた浅羽さんは、帰国後、「見るだけ見てみよう」と連絡。夜行バスで名古屋に行くと伝えると、「迎えにいく」と返事があった。
待ち合わせの朝、Oさんは名古屋のバスターミナルに純白のポルシェで現れた。その姿を見た瞬間、浅羽さんの心は決まった。
「おれももんじゃ焼きをやろう!」
Oさんは名古屋で2店舗を経営していて、いかにも羽振りがよさそうだった。すっかり前のめりになった浅羽さんに、気前のいいOさんは「上の事務所が空いてるから、そこに住んでいいよ」と言った。こうして1998年2月、福岡に妻子を置いて名古屋に出てきた浅羽さんは、単身赴任のアルバイトとして働き始めた。