TOPIC-3 「自分のみ」を変えることの危うさ

前回内容を紹介しなかった著作が2つありました。中川淳一郎さんと、見城徹さん・藤田晋さんによる著作です。これらは前回紹介した各著作とは少し傾向が違っていると言えます。中川さんの『凡人のための仕事プレイ事始め』では、仕事にはくだらないことがついてまわるけれども、仕事は良くも悪くも人生を左右する重要なものであり、また人生を賭けるに値する尊いものだというスタンスがとられています。

見城さんらの『憂鬱でなければ、仕事じゃない』では、仕事は憂鬱であることを避けられないけれども、「暗闇の中でジャンプ」(見城・藤田、91p)するからこそ前進することができるというスタンスでした(これは、著作の主張の一部分に過ぎませんが)。

両者ともに、仕事についてこれを解決すればすべてうまく行くとは言い切らず、ポジティブさとネガティブさを抱えつつ前に進もうという態度をとっていると言えます。しかし、このように煮え切らなさを抱え込み、仕事の「辛さ」「つまらなさ」への明快な解答を示さない仕事論は稀な方です。それ以外の対象書籍では前回示したように、仕事の「辛さ」等の問題はすべて「心」の問題に還元されているのです。

言ってみれば、仕事が辛い、つまらないと思った人が、書店の「ビジネス」「自己啓発」という棚に救いを求めようとするとき、そこで得られる「答え」にはひとつのパターンしかないということです。

「心」の問題だ、すべて自分の考え方次第だと主張するのは、自己啓発書なのだから当然だろうと言われればそうなのかもしれません。しかし私はどうしても、仕事が楽しいかつまらないか、辛いかどうか、成果が上がるかどうかは「心」の問題だとのみ言ってしまうと、結果としてもっと苦しくなってしまう可能性があるのではないかと考えます。

小倉広さん(『僕はこうして、苦しい働き方から抜け出した。』)と新田龍さん(『明日会社に行きたくないときに読む本』)の著作には、それぞれ「自責」という言葉が出てきます。まず新田さんの場合は、「トップ営業マンやカリスマ店員などと呼ばれる『デキる社員』は真逆で(かつて新田さん自身が自分の他に失敗の原因を求めていたことに対して:引用者注)、『自責』で考えます。すなわち、『起こっていることすべてを『自分の責任』として捉える』ということですね。自分ではない、何かほかのことに責任転嫁しているうちは、問題を解決することは絶対にできません」(新田、29p)。

また小倉さんはこう述べます。「学ばない者は人のせいにして、周囲を責めます。(中略)自責は過去ではなく、未来へと向かう。自責とは、問題の原因が自分にあると考え、自分を変えることで問題を変えようとするアプローチのことです。本来の自責とは自分を『責める』ことではありません。自分で『責任』を取る。それを自責というのです」(小倉、8-9p)。

私はこのような態度そのものをすべて否定するわけではないのですが、このような、仕事で起こる問題は何よりも自分に責任があり、自分をこそ変えるべきという態度に固執することは、新たな苦しさを生むように思うのです。小倉さんの著作を例にして、今述べたこの「新たな苦しさ」について説明したいと思います。

小倉さんの著作では、かつて自身が課長としてチームのメンバーを責め続けた結果、「総スカン」をくらって次のようになったと述べられています。「もしかしたら、本当は、僕のやり方の方が間違っていたのかもしれない……」(6p)。やがて小倉さんは「毎日、毎晩、自分を責め続け、会社に行くことが怖くなって」(7p)、心療内科の門を叩いてうつ病と診断されることになります。

小倉さんは、これは過去に目を向けた、誤った自責だったと振り返っています。そうではなく、未来に目を向け、自分を変えていく自責こそが、苦しさから解放される「本当の意味での自責」(9p)だと主張するのですが、私はこのような考え方に一抹の不安を覚えてしまいます。つまり、未来に向けて自分を変えていく自責によっても仕事がうまくいかなかったら、状況が改善しなかったら、苦しさから抜け出せなかったらどうなるのか、と考えてしまうのです。

これが、先に私が述べた「新たな苦しさ」の意味です。自分自身を変えたとしても、状況が変わらないことはあるはずです。そのとき、どうすべきなのでしょうか。まだ自分は「本当の意味での自責」が出来ていないのだとして、さらに自分自身を変えて、変え続けて…となるのでしょうか。それでもうまくいかなかったら、「もしかしたら、本当は、僕のやり方の方が間違っていたのかもしれない…」と自らを一層強く責めることにならないでしょうか。あまりに自分で引き受けようとすることによって、場合によっては、より苦しい思いを抱えることにはならないでしょうか。