より苦しくなる人を生む

臨床心理学論を専門とする小沢牧子さんは、「心」に注目することの「脱政治作用」(『「心の専門家」はいらない』201-203p)について述べていました。つまり、「心」を変えよう、癒そうといった目標に専心することで、簡単に解決はできないけれども、自分以外の人達と協力して粘り強く考え、取り組んでいかねばならない「心」以外の問題――今回の文脈で言えば職場環境や雇用状況一般の問題――へのまなざしを破棄させてしまうというのです。これは言い換えれば、状況自体に問題があってもそれを温存させてしまうことにつながります。小沢さんは、「心」を変えればすべてうまくいくといった類の原論について、「穏やかに適応に導く」(202p)管理の手法だとも述べています。私が今まで述べてきたのはほぼこのことでした。

小沢さんの指摘から、派生的に以下のようなことも考えられると思います。たとえば木暮さんが述べる「自己内利益」でも、あるいはグラットンさんが述べる「知的資本」「人間関係資本」「情緒的資本」でも、岩瀬大輔さんが述べる「コミュニケーション」「スキル」「モチベーション」「キャリアプラン」「プライベート」「チャレンジ」という6つの課題でも、そして「自責」でもいいのですが、これらを高める、あるいは行うことは、どのような職場で働く、どのような人にでも同じようにできるのかということです。

たとえば、小倉広さんの著作の中には、次のような女性の言葉が紹介されています。「私が勤めている会社は、ひどい状況です。労働基準法を無視して、ただ働きの休日出勤や残業を強制されたり、人間性を無視したようなパワハラが横行したり。この状況で感謝しろ、と言われても、とてもムリです(小倉さんが、感謝の気持ちを持てば苦しさが消えていくと締めくくった講演会後の懇親会の席で:引用者注)」(小倉、168p)。

小倉さんはこのとき、「質問に答えることができませんでした。あまりにも辛い現状を受け入れることができないでいる彼女に『べき論』を言うことなどは、とてもできなかった」(169p)とまず述べています。しかしその後彼女には「足りないことを嘆くのではなく、今あるもののありがたさを見なさい」(169p)と言葉をかけ、その節を最終的に「苦しさの原因を外部環境のせいにしてはいけません。そうではなく、辛いことがあったときに、自分の考え方が原因であることを自覚する」(173p)という持論に引き戻してまとめています。小倉さんは決して悪意で言っているわけではないと思うのですが、劣悪な労働環境の問題はここでは結局、自分自身の考え方の問題に引き戻されています。

ここで少し異なった見方を提示してみましょう。反貧困ネットワーク事務局長の湯浅誠さんは『反貧困』(2008、岩波書店)のなかで、次のような言及をしています。「『自分も頑張ってきたんだから、おまえも頑張れ』という言い方は、多くの場合、自分の想定する範囲での『客観的状況の大変さ』や『頑張り』に限定されている。そのとき、得てして自他の“溜め”の大きさの違いは見落とされる。それはときに抑圧となり、暴力となる」(湯浅、88p)。

「溜め」という言葉は、この著作のなかでは、生きていけるかどうかの生活をする人々が「がんばるためには、条件(“溜め”)が要る」(91p)という文脈において提示されている言葉でした。これには経済的な溜め、人間関係の溜め、精神的な溜めなど、いくつかのバリエーションがあります。私はこの湯浅さんの「溜め」という言葉は、貧困の文脈だけでなく、仕事上の成功や仕事論一般にも援用してもよいのではないかと考えています。

つまり、上記の「溜め」は、働いている人一般において、誰もに等しく配分されているわけではないと考えるのです。仮に、上記の女性のような、劣悪な労働環境に置かれている方がいたとして、そのような状況で、自分の考え方を変えて、スキルを高めて、色々な資本を高めて、今後も頑張っていこうと思うことは果たしてどれほど可能なのでしょうか。

もちろん、可能な人もいるとは思うのですが、それは少数派なのではないでしょうか。今回とりあげた著作の多く――自己啓発書一般がそうかもしれませんが――についておそらく言えるのは、湯浅さんが述べるように「誰もが同じように『がんばれる』わけではない」(91p)ということがあまりに看過されているということです。

にもかかわらず、どのような状況でも、自分自身の考え方を変えることができる、それさえできればすべての状況は改善できる、できないのならそれは…と言うのは、それによってより苦しくなる人を生むのではないのでしょうか。ものの見方を単純化することの功罪があると思うのです。

さて、仕事論そのものについてはこれで終わりです。次回は、今回の対象書籍を読みながら、もうひとつ、派生的に考えたことについて書いてみることにします。タイトルは「自己啓発書を多く読むとどうなるか」です。

(次回は1月9日に掲載します)

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