引きこもりの苦しみ

私はそのままズルズルと、不登校生活へと突入していった。それは本格的な引きこもりのはじまりを意味した。もっとも多感な時期の引きこもりは、私の人生において大きなトラウマとなった。

家から出られない生活は、心身ともにこたえる。

引きこもりは、苦しい。とにかく苦しいのだ。

自分だけが社会や学校から取り残されていると感じる。そして日々、自分がどうしようもないダメ人間に思えてきて、焦燥感が襲ってくる。自分はこの世界には存在してはいけない人間なのではないかと思えてくる。

私は、真昼間に母の車でたまに出かけた。助手席に座った私はシートベルトを外し、必死に小さく体を丸めて姿を隠した。引きこもりは、やっぱり恥ずべき存在なのだ。それは、骨の髄まで母が私に植えつけた「恥」の感覚だったと思う。

考えてみれば私の心は、これまでの人生で幾度となく傷まみれになっていた。幼少期に母から虐待されたとき。母の敷いたレールから完全に外れてしまったとき。そして、こうやって、誰にも見つからないように身を縮めているとき。そうやって自分の存在を押し殺していると、いつしか致命傷になってどんどん苦しくなっていくのがわかる。

私は明るい時間帯に近所の住人に出くわし、じろじろと見られることが怖かった。ゴミ出しなどで私に出くわすと、近所の住民たちはハッとした顔をして、目を逸らす。

「子どもたちはみんな学校に行っている時間なのに、あの子は家にいるんだわ」と陰口をたたかれている気になる。本当はそうでなくても、ひたすら家の中に引きこもっていると精神状態が徐々におかしくなり、そんな被害妄想が私の中で少しずつ肥大化していった。

私は人目を極端に気にするようになってからは、昼間に出かけることをやめ、昼夜逆転の生活を送るようになった。

引きこもりの当初は、自宅学習をしようと意気込んでいた。勉強だけは遅れをとりたくなかったからだ。

しかし、家の中にいると無気力になり、机に向かう気力すら奪われ、それどころではなくなった。自室に引きこもってボーッとしたり、本を読んだりゲームをしたりして過ごしていた。不登校生徒の多くは、私のように勉強で遅れをとるらしい。私も例外ではなかった。

ベッドに座り込んで苦しむ女性
写真=iStock.com/Eakkarat Thiemubol
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過去の過ちを母に認めてほしかった

その頃から、私の家庭内暴力がはじまった。母親に向かって暴力を振るうようになったのだ。断っておくが、家庭内暴力は今なら絶対によくないことだとわかっている。

しかし、当時の私は、いつも行き場のない爆発寸前のマグマを煮えたぎらせていて、善悪の分別がついていなかった。いや、きっと分別はついていたはずだ。暴力は悪いことだと私も当然ながらわかっていた。しかし、どうしてもあふれ出る感情を抑えきれないのだ。家庭内暴力のときに、たいていいつも話題に上ったのは、かつて母にされた虐待行為だ。

私の人生は、どうして狂ってしまったのか。ひたすら自分で自分を責め立てる日々――。さらに、私は家に引きこもるようになってからというもの、時折襲い来る幼少期のフラッシュバックに悩まされるようになっていた。

だからこそ、私は母に過去の過ちを認めてほしかったのだ。家庭内暴力が起きる際に、いつも母が私にした暴力を責め立てた。

「あのとき、私を虐待したでしょ! 認めろよ!」
「そんなことはした覚えがないのよ」

信じられないことに、母は私への虐待を認めなかった。徹底的にしらを切った。やった、やってない、の激しい応酬が続く。

私は、母の虐待行為を激しくなじった。虐待親の多くは、子どもにその行為を問い詰められたとき、母親のような反応をするらしい。

あのとき、母が認めてくれたら、どんなによかっただろう。「ごめんね」の一言だけでも言ってくれたら、どれほど救われただろう。私は、母のその一言を長年、待ち焦がれていたからだ。

けれども、母の口から、ついに最後までその言葉が出ることはなかった。母は弱々しく、しまいには擦り切れた声で、「久美ちゃん、本当に覚えていないのよ。そんなことがあったなんて、お母さん、全然覚えてないの」と目を潤ませた。

「うそつけ!」

それを聞いた途端、やり場のない感情が怒涛のように押し寄せた。

無力な私は、あんなに苦しかったのに。あんなに、悲しかったのに――。全部、全部、お母さんは、なかったことにするの? じゃあ、あのときの私は、どうすればいいの。私はいったい、どうすればいいのよ!