メタファー炸裂!「クラブ派」住宅

僕がいちばん面白いと思ったのは、なんといっても「クラブ派」についての章だ。著者ならではの秀逸なメタファーが次から次へとジェットコースターのようにめくるめく展開する。思考のドライバーとしてのメタファーの威力をあますところなく示している。

ここで「クラブ」というのは、飲むほうのクラブで踊るほうではない。銀座の高級クラブのようなスタイルの住宅を指している。話は逸れるが、僕の家には踊るほうの「自宅クラブ」がある。自宅クラブといってもジッサイのところはただの居間。音楽は大きな音で聴くに限る。夜になると家の者たちにうるさいと言われないように、ヘッドフォンを装着する。で、音楽を聴くと必ずといってよいほど踊りたくなる体質なので、そのまま踊ることになる。これが自宅クラブなのだが、傍からみれば無音でくねくね体を動かしているだけ。まるで変質者だ。

話を戻す。銀座のクラブとは住宅とは一見対極にあるように見える。住宅は日常の家庭。一方のクラブは非日常の反家庭的な存在だ。ところが世の中には銀座のクラブをコピーしたような住宅に住む人々が存在する。ではなぜクラブ派の人たちは、クラブの空間を住宅にコピーしたがるのか。ここでも住宅建築の象徴作用に注目して著者はこの問題を解き明かす。

クラブの空間が住宅の中にコピーされるときに象徴するものは何か。それは空間の排他性である。敷居の高さといってもよい。銀座の高級クラブといえば「座っただけで○万円」。一見さんお断りで、誰もが気軽に行けるところではない。その排他性にこそクラブ派の求める価値がある。

クラブ派住宅は経済的な排他性にくわえて、建築的な排他性も象徴している。雑居ビルのテナントであるクラブにはそもそも外観がない。そこでクラブ派住宅の外観はひたすら「おとなしいデザイン」になる。「お屋敷」がおとなしい外観であるのは、極めて日本的な傾向だと著者は言う。クラブ派の外観にもこの日本の「お屋敷」の伝統が流れている。

「江戸時代の武家屋敷を見れば明らかなように、屋敷の格式は建物本体によって表現されるというよりはむしろ、庭、塀、建物の配置といった、建物のまわりの建築的仕組みによって表現された。すなわちそこにおいては、庭、塀等によって建物を『奥まらせる』ことで、建物の格式、そして排他的性格が表現されたのである。それは西洋の住宅が、一般的に言って、建物それ自体のモニュメンタルな意匠によって、建物の格式、あるいは排他性を表現していたのとは対照的である」

「奥まらせる」といっても、いかんせん日本の住宅の敷地は狭い。したがって、クラブ派の住宅はいたって現実的な手法を使うことになる。たとえば、彼らはガレージの脇を通って玄関にアプローチするというスタイルを好む。一方、西洋の住宅ではガレージは基本的には裏方の部分に属している。玄関のような建物の顔の部分と競合することはない。大邸宅になるほどその傾向は強い。しかし、クラブ派は屋敷を「奥まらせる」ための手法としてガレージを活用する。ついでに「奥まらせる」途中で高価な車を見せることによって、さらに経済的な排他性を強調しようという意図が隠されている。車は輸送の道具ではなく、建築的な小道具としての象徴作用を担っている。

クラブ派の住宅は異常なまでに塀を好む。塀、あるいは表札、郵便受け、玄関のインターホン、アプローチの空間におかれる盆栽的植栽。こうした細部に対する執拗な凝り方は日本の伝統的空間技法の正当な嫡子と理解できる。

次にクラブ派住宅のインテリア。これがややこしくも面白い話になっている。クラブ派のインテリアは銀座のクラブ空間のコピーになっているのだが、ここには2重の象徴作用があり、じつはクラブ空間がそもそも住宅空間をコピーしたものであるというのが著者の見解だ。

「その最も明白な証拠はクラブの女性という独特の存在である。これはもう酒場の女性の形態としては、世界的に見て例外に属する。クラブの女性がクラブで行うサービスは、住居の中で妻が夫に対して行なうサービスのコピーであり、それも一種の理想化されたコピーである。」

銀座のクラブのような場所は世界的にも類例がない。「日本固有の文化」といってもよい。クラブではお酒はもちろん、おつまみや煙草、さらにはおしぼりといった小物に至るまで、必要なものが阿吽の呼吸で即座にサービスされる。どんな話題にもクラブの女性は柔軟についてくる。つかずはなれずのきわめて上等で上質なサービスが顧客に供される。

これは家庭の中でクラブ派の夫が妻に対して期待している究極の理想なのだが、当然のことながら、現実の家庭でそんなサービスがあり得るはずもない。つまり、クラブの女性は「理想化された妻」を体現した存在である。服装にしても決して水商売っぽい服装ではなく、ディオール、サンローラン、シャネルあたりの山の手の上品な奥さま風情の既製品をそれらしく着こなしている。