「場所主義」の国、日本

いまでは文庫にもなっている『10宅論』は、1986年に出版された隈研吾さんの最初の評論集だ。1954年生まれの著者は僕より10歳年上だが、この本が出た当時は弱冠32歳。最初の本にはその人のアタマの体質というか思考の肝(きも)となる部分が如実に出るものだ。

『10宅論』を貫く問題意識は「建築の象徴作用」である。前回長々と紹介したごく最近の『場所原論』の「場所主義」とほとんど変わらない。著者が同じ問題意識を連綿と持ち続けて仕事をしていることがよく分かる。『10宅論』の冒頭で著者は喝破している。

「近代建築は建築が本来持っていた象徴作用を不当に無視してきた。ラスベガスの大通りに溢れる看板、サイン、建築、あの豊かな象徴作用こそ、建築家は見習うべきである――建築家ロバート・ヴェンチューリはこのように主張した。それは象徴作用を喪失し、無性格で退屈な箱に陥っていた近代建築への徹底的な批判だった」

モダニズムの建築は合理性や機能性を追求した。それが普遍的であるがゆえに、合理性や機能性は「場所」の文脈から建築を切り離す試みだった。かつての建築に色濃かった象徴作用(たとえば「トーテムポール」は純粋に象徴作用を目的とした建築だった)はあっさりと捨象された。モダニズムで最も成功した建築家の1人であるル・コルビュジエがその典型だ。彼は象徴する意味や文脈から独立した建築そのものの普遍的な機能美を追求した。

これに対する批判がポストモダニズムの動きだった。その嚆矢がベンチューリである。彼はラスベガスの象徴作用に注目した。ラスベガスは「砂漠の中に浮いた島のような都市」である。世界中からやってくる匿名の観光客がこの都市の主役となる。彼らは文化的なバックグラウンドも異なるし、ほんの数日の滞在で、また砂漠の風のように都市を去っていく。これはアメリカという社会なり文化の強烈な象徴作用として理解できる。

「場所」は必要ない。これが西洋合理主義の発想だ。近代は「場所」が見えなくなった時代だった。「場所」に関係なく発生する意味(コルビュジェの場合は「機能」)というものがあるはずだ、というのが近代モダニズムの基本精神だった。これに対して、日本型の象徴作用は本来「場所中心的」であると著者は言う。

「『場所』がモノの意味を決めるということを、日本人は当然のこととして、納得していた。これが日本文化のあらゆる領域で、前提となっている了解事項である。その了解事項の上に、極めて意識的でゲーム的な『場所』の選択が行われる。それがもともと日本文化のシステムだった。 日本人はまず自分の立つ『場所』を選択する。そして一旦、自分の『場所』さえ定まれば、そこできわめて大胆に、そして繊細に象徴作用を駆使するのである。それぞれの『場所』は極めて狭いけれど、かえってそれゆえその『場所』の中では、濃密で微妙な約束事(コード)が形成されるのである。」

日本人は「場所」の差異について神経質なほど繊細な感性を持っている、と著者は指摘する。「ある場合には特定の感性や約束事を共有する小集団であり、またある場合には、文字どおり1つの空間的領域」、それが著者のいう「場所」である。この両方の順列や組み合わせによって、「場所」はさらに細分化されていく。たとえば茶道の世界をひとつの「場所」とすれば、それは時間とともにさまざまな「流派」という場所に分化していく。この意味での「場所」と、それがもつ「象徴作用」が『10宅論』のテーマになっている。

「個々の「モノ」の意味が、『モノ』の内側から一意的に決定されるのではなく、『モノ』の置かれた『場所』(すなわち『モノ』の外側)によって決定されている有様を記述すること。そして『モノ』の行う象徴作用が『場所』に深く依存している様相を解き明かすこと。これが本書の主題である」

いまから30年ほども前に書いた『10宅論』に、「負ける建築」や「小さな場所」といった概念の原型がすでにできていることに驚く。著者はこう続ける。

「その『場所』の分類の基準となっているのは住宅のスタイルの差異である。住宅のスタイルの違いは住む人間の違いを意味し、その人間の価値観の違いを意味し、かつその『場所』で繰り広げられる象徴作用の前提を支配する」

日本人にとって「自分の住んでいる住宅を記述するということは、自分を記述することだった」というのが著者の見解だ。日本のこうした傾向が「場所中心的象徴作用」である。たとえば鴨長明の『方丈記』。この本は住宅の記述に異様なまでに比重が置かれているという。僕も最近読み直してみたが、確かにこれでもかというほど住処について書いている。日本の建築には根本のところでは場所主義の伝統があり、バブル崩壊後、その伝統に回帰する動きが顕著になってきたといえるかもしれない。

メタファーを駆使した分類ゲーム

『10宅論』は、住宅を10種類に分類し、日本の住宅を論じている。なぜ10種類かにとくに意味はない。単にタイトルを『10宅論』にしたかったからという軽いノリである。「分類ゲーム」といってもよい。

日本の多種多様な住宅(および、それに住まう人々)を10のアーキタイプへと抽象化する。この知的作業の原動力として、著者はメタファーを駆使する。本書の分類ゲームは最初から最後まで「メタファー遊び」になっている。次から次へと出てくるメタファーの縦横無尽ぶりは、まるで知的な曲芸をみているようだ。隈研吾=メタファー大魔神。ここに著者の類まれな抽象化能力、概念構想力の正体があると思う。

メタファー(暗喩)は比喩の一種で、メトノミー(換喩)やシミリー(直喩)と区別される。概念の近接性に基づく比喩は換喩と呼ばれる。たとえば「永田町」は、日本の政治の中心となる機関が多く存在すことから「日本の政治」そのものを指す言葉として使われる。あるものとの明示的な比較に基づく比喩が直喩だ。たとえば「血のような赤」といった表現がそれである。建築でいうと、「客船の形をしたラブホテル」。これは直喩の例だ。直喩の特徴は、比較の対象を限定することで相手にその比喩の理解を強要することにある。

これに対して、類似性に基づく暗喩は、受け手の理解を強要しない。直喩が具体と具体を横に並べて類推するのに対して、隠喩は具体をいったん抽象に引き上げて、そこから具体に落とすわけで、もうひと手間加わっている。ようするにメタファーそれ自体が具体と抽象の往復運動になっている。