歌手活動を続けていたが、1982年に突然の死を遂げる

しかし、1982年2月10日、キングレコードのパーティーで功績ある歌手として表彰された際、常務に「新曲のことでゆっくり話したいの」と言ったにもかかわらず、2月13日、港区高輪の自宅マンション寝室のベッド上で横たわっているところをマネージャーが発見。死亡解剖による検死の結果、吐いたものが気管に詰まっての窒息死と判定された。風邪気味だったところに、脳出血で意識を失い、吐しゃ物を吐き出せなかったことが原因という。

2月16日、葬儀には美空ひばり、雪村いづみ、清川虹子ら多くの著名人が参列。くしくもこの日は高倉健の誕生日であり、チエミとの結婚記念日でもあった。

ちなみに、高倉は『サンデー毎日』(1972年12月10日号)に「男の人生を語らせてもらいます」と題し、特別手記を寄稿している。その一部を引用しよう。

いつも煩悩に悩まされるバカな人間だが、僕にあるのは映画俳優という仕事しかない。この仕事に自分のすべてをぶつけるしかない。この僕の生き方が一人の女性を不幸にしてしまった。僕はいまでも彼女(江利チエミ)を仕事に生きる女性として尊敬している。同時にほんとうに申訳ない(原文ママ)と思っている。昭和三十四年の僕の誕生日に結婚してから、十二年間、僕はただガムシャラに仕事一途に生きてきた。それがあるとき、ふと、こんな疑問にぶつかった。

「オレみたいなヤツが、世間一般のような、家庭の幸せというものを築き上げることができるのだろうか。いまのままで、この女を幸福にすることができるだろうか」

たしかに俳優さんの中にも仕事と家庭をうまく両立させている人もいる。ところが、僕は不器用な人間だ。あっちもこっちもうまくやるというような器用さがない。そう思い出すと、もうたまらなくなった。オレはこの女を十二年間も不幸にしてきたのではないか。別れる以外にない。これが僕の出した結論だった」
『サンデー毎日「男の人生を語らせてもらいます」』(1972年12月10日号)

江利チエミと高倉健は離婚後もお互いを思っていた

お互いに愛情がありながらも、お互いに迷惑をかけないため、どちらも自分に原因があると語って離婚したチエミと高倉。なんとも悲しい別れである。

そんな愛する人への思いを残しつつも、江利チエミの波乱万丈の人生は45歳で幕を閉じた。あまりに早すぎる死は、くしくも母・歳子が亡くなった年齢、46歳とほぼ同い年だった。

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