虐待から逃れるために4歳の私が望んだこと

当時の私にとって母の虐待は、もはや日常だった。私は幼稚園から帰るのが、怖くてたまらなかった。この瞬間が訪れると混乱と恐怖で立ちすくみ、ガタガタと震えがくる。

母の虐待は気まぐれで、あたかもロシアンルーレットのようだった。機嫌がいいときは、気が済むと短時間で解放されることもあった。

そんなときは、「もうくるしくない」という感覚にホッとする。そうして私は再び、あの光のある世界へと還っている。光は、私が再びこの世界に生還した証しだ。それは私が呼吸をしている、まだ生きている証しだ。

しかし、私は母の虐待によって何度も生命の危機に近づいた。そのままストンと気を失うこともあったからだ。

そんなときは、気がつくとあたりは真っ暗闇になっていた。まるでタイムマシンで昼から夜に突然ワープしたような感覚なのだ。それはとても薄気味悪くて、怖かったことを鮮明に覚えている。

それでも子ども心に、わかったことがある。あっちの世界に行ってしまえば楽になるということだ。

「気を失う」と、ふわふわした毛布の中で意識が薄れていき、全身の力がフッと抜ける。すると私は一時的に「くるしいこと」から逃れられる。苦痛を感じないでいられる。そうして気がつくと、夜になっている。夜になっていれば、すべては終わっている。そんなことにある日、ふと気がついた。

生きているという苦痛――。この地獄を、生き続けなければならない苦痛。

このまま遠い世界に行ってしまえば、楽になるのに。このまま消えてしまえば、もう苦しくなんかないのに。手足の感覚がなくなり、小さな私がプツリとテレビの画面のように消え、世界から消滅してしまうこと。「いたい」「くるしい」。そんな自分を必死に表現する覚えたての言葉と、快不快の感覚だけの世界からいなくなること――。

大人になった今なら、それが「自死」を意味すると客観的に認識できる。しかし、まだこの世に生を受けてわずか4年ほどの未熟な私は、「自死」という言葉も、その概念も持っていない。それでもこの頃の私は、母の虐待から逃れるために、潜在的に「自死」を望んでいたのかもしれない、と思う。そのくらい、あの母との時間は耐えがたいものだったのだ。

無限に続く処刑のループ

嬉しかったのは、記憶が飛んだ直後、母が決まって異様に私に優しくなったことだ。母はたび重なる虐待で気を失う私を見て、死んだかもしれないと、内心おびえていたのだろう。

私が死ねば、母は殺人者になって刑務所に送られるのだから――。しかし、そんな「大人の事情」なんて何一つわからない当時の私は、時折見せる母の優しさに有頂天になっていた。

私はあのときに母の愛を渇望していた自分を思うと、いじらしくて泣けてきてしまう。あれだけのことをされても、私は、母の愛が欲しかったのだ、と。どんなにひどいことをされても、母に優しくされたかったのだ、と。

しかし、そうやって心の底から母に対して湧き上がる感情そのものが、これから40年間続く私の人生を縛りつけ、もっとも支配してやまないものになるとは、夢にも思ってもいなかった。

菅野久美子『母を捨てる』(プレジデント社)
菅野久美子『母を捨てる』(プレジデント社)

私はこうやって、幼少期を生き抜いた。サバイブした。朝起きて、幼稚園に行き、バスで家に帰り、「いたくて、くるしい」母の暴力にさらされ、心身をこれでもかといたぶられた。

そうして、幾度となく父の書斎で「生」と「死」の狭間を行き来する。何度も何度も繰り返され、いつ終わるともしれない無限に続く処刑のループ。その断頭台に数え切れないほど上った私は、そうして魂の隅々まで、母に殺されたのだ。

大人になった今ハッキリ言えるのは、母のやったことは明らかな虐待行為であるということだ。そして同時に思う。虐待の恐ろしさは肉体的な苦痛だけではない。このどうしようもない無力感を、生涯にわたって子どもに植えつけることなのだ、と。大人になっても人生のありとあらゆる局面においてその感覚がぶり返し、無力感にさいなまれることなのだと。

私には母の虐待から逃れるすべがなかった。

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