母が呼吸を奪う虐待を繰り返した理由

母は、私にありとあらゆる虐待をしてきたが、こうして私の呼吸を奪うことが多かった。そして、私にとって一番の恐怖は、お尻を叩かれることでも、ビンタされることでもなかった。そんなことは、一瞬の痛みに過ぎない。

一番の恐怖は、こうやって呼吸をじわじわと、いつ奪われるかもしれないことなのだ。母が、呼吸を奪う虐待を頻繁に繰り返した理由――。それは、今考えてみれば、母が近隣住民に知れ渡ることを、何よりも恐れたからだろう。

当時私たち一家は、福島県郡山市の古い借家に住んでいた。よくある普通の地方都市だ。私が生まれた1980年代は、今ほど児童への虐待が認知されていなかった時代である。

とはいえ、近隣関係は今ほど希薄ではなかった。案の定、お隣との距離も近く、隣には心の優しい親切な年配の夫婦が二人で住んでいた。母は、よくこの隣人の奥さんにおすそ分けをもらうような仲だったし、町内会も顔の見える関係で機能していた。

だから私が泣き叫べば、誰かが駆けつけたり、噂されたりする。それを、母は何よりも恐れたのだろう。

周囲に声を聞かれてはいけないし、何よりも母の行為は誰にも知られてはいけないのだ。だから母の虐待は、声や呼吸を奪うものが多かったのだろう。またこの方法だと、私の体に傷がつくことはないという利点もある。服の着脱がある幼稚園に気づかれると、児童相談所に通報されるかもしれない。

そして、母が虐待場所に父の書斎を選んだのは、その部屋が家の中で一番奥まった場所にあるからだ。

母がそんなことまで周到に考えていたのかと思うと、背筋がゾッとする。しかし、そんなトリプルプランが功を奏してか、近隣住民や幼稚園に母の虐待が知られることはなかった。父親にすらも――。

そう、母の虐待行為を知っているのは、当事者である私、たった一人である。それはいみじくも、誰からも救いの手を差し伸べてもらえなかった残酷な事実の裏返しでもある。そして、母の虐待に一人で挑まなければならなかったことを意味する。

「死んだふり」をした私を見て驚いた母

そうして何度も何度も私は、母に「殺された」。それでも、我ながら生物の「生きる」力はたくましいと思う。私は母の虐待のパターンを子どもながら必死に学習し、何とかそれに立ち向かおうとしていたからだ。

ある日、私は、母の虐待を何度も受けるうちに、いつか昆虫図鑑で見たヤモリの生態を思い出していた。ヤモリは、敵が去るまで微動だにしない。そうして敵が去ると再び動き出すのだ。そうやって、ある種の昆虫や爬虫類は死んだふりをして、我が身を守るのだという。

私はある日、あのヤモリを見習って「死んだふり」をした。突如として泣きじゃくることをやめ、突然ガクンと力を抜くのだ。それは4歳の幼稚園児が必死に編み出した、痛々しいまでの生存戦略だったと思う。危機的状況を必死にサバイブするための、命を懸けた戦い。

しかし今思うと、そんな私が見せる生への執着こそが、何よりも母の苛立ちの対象だったのではないだろうか。

最初、母は突如として動きを止めた私を見て、驚いたことを私は覚えている。私の首を絞める力が一瞬だけゆるんだからだ。

しかし母のほうが何倍も、いや、何十倍も上手だった。母は、いつからか私の擬態を見破るようになったのだ。ある日を境に、母は私がガクンと力を落としても、毛布の上から首を絞め続けた。

そのときの私は再び、絶望の淵へと突き落とされたと思う。もう、「死んだふり」はできない、と――。

小さな女の子が手のひらを突き出して暴力から自分を守ろうとしている
写真=iStock.com/Serghei Turcanu
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