ノンフィクション作家の菅野久美子氏は小学生の頃から作文コンクールや新聞の投書欄に応募し、6年生のときには自作の童話が新聞に掲載された。自分で書いた文章をさまざまなコンクールに強迫的なまでに応募し続けたのは、毒母からの虐待生活を生き延びるための唯一の方法だった――。

※本稿は、菅野久美子『母を捨てる』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

母と一体になれた作文コンクールの受賞

ある日、私に大きな転機が訪れた。それは学校から届いた何かの作文コンクールの応募用紙だった。その用紙を目にした母に言われるがまま、小学生の私はそれに応募することになったのだ。

「お母さんの言うとおりに書きなさい。そのまま書けばいいからね」

記憶があやふやなのだが、はっきりと覚えているのは、眠い目をこすりながら夜中まで、母の言うままに400字詰め原稿用紙に鉛筆を走らせたことだ。

真っ暗闇の中、煌々と灯ったオレンジ色の電灯の光が、私のまぶたに今も焼きついている。

眠くて記憶がなくなっていたが、朝起きると原稿用紙にはしっかりと文章ができていた。それは、母がほぼ書き上げたといっても過言ではなかった。

母は結婚する前までは国語教師で、特に作文指導が得意だった。

私はその作文コンクールで大賞を取り、全校児童の前で表彰された。家に帰ってそれを告げると、母は飛び上がって私を抱きしめた。断っておくが、その文章の8割近くは母が考えたものだ。だから今思うと、この行為は何とも後ろめたい思いでいっぱいである。

しかし実際のところ、当時の私には罪悪感なんて微塵もなかった。だって、あの母が喜んでいるのだから。それはイコール母が認められたことに等しかった。むしろ母がつくった文章であることが、母と私が一体になれた気がして、無性に嬉しかった。

そのとき、母は「これだ!」と思ったに違いない。世の中を見返すときがやってきたのだ。文才のある娘という、打ち上げ花火を使って――。

母のトクベツになれた日

それからというもの、私は母に言われるままに原稿用紙に鉛筆を走らせた。そんな事情など知る由もない担任の先生も喜んで、私に全国規模の作文コンクールの情報を頻繁に持ってくるようになった。最初、その文章のほとんどは母が書いていた。そのうち文章のテクニックがつかめてくると、しだいに私が書いた文章を母が添削するだけになった。

そして、私は次々に作文コンクールに応募しては、総なめにしていった。大賞や最優秀賞を頻繁に取ることはさすがに難しかったが、佳作や優秀賞には引っかかるようになったのだ。

作文コンクールで入賞するたびに母は狂喜した。そして、私をこう鼓舞するのだった。

久美ちゃん、もっともっと、たくさん賞を取るの。そうして、お母さんを喜ばせて。そして、耳元でとっておきの一言を囁いた。

「久美子は、お母さんの血を引いているのね――」

その言葉は何よりも私を歓喜させた。そして、気が付くと目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。私は、お母さんの血を引いている――。私は母の「トクベツ」なのだ。ずっとずっと母に自分を見てほしかった。その母が今、私を見ている! 私を見てくれている! 大事にしてくれている。私は、お母さんの身代わりになる。お母さんが生きられなかった人生を生きる。だから、お願い。私をもっと見て!

文章をうまく書けると、母に褒められる。そして母に褒められるためには、文章をもっともっとうまく書いて、いっぱい賞を取らなければならない。私はそう決意した。

勉強する子ども
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