母と私のつながりの証し
この頃から母は新聞投書や作文コンクールでは飽き足らず、私に毎月、「公募ガイド」を買い与えるようになっていた。
公募ガイドとは、賞やコンクールなどの公募情報を集めた雑誌のことである。ズシンと重いその雑誌には、エッセイや小説、ノンフィクションなどさまざまな賞の公募リストが掲載されている。
天才童話作家のような存在に子どもを仕立てるには、大人向けの賞に応募してその選考を勝ち抜かなければならない。母は、おそらくそう考えたのだろう。それは小学生を対象にした作文コンクールとは比較にならないほど超難関なのだが、母は一人で舞い上がっていた。
「あんたも、竹下龍之介くんみたいになるのよ! だってあんたには、お母さんから譲り受けた文章の才能があるんだから!」
母は、事あるごとに私にそう言ってハッパをかけた。竹下龍之介くんというのは、弱冠6歳で『天才えりちゃん 金魚を食べた』を書いて時代の寵児となっていた天才童話作家だ。母の期待がいかに熱いか、私は嫌というほど思い知らされた。それが大きなプレッシャーだったのは事実だ。
その一方で、私はこの母の言葉が正直嬉しかった。経済学部卒で理数系の父は、文章はてんでダメだった。しかし、国語教師だった母は、幼少期から文章がうまかった。
文章は、母から授かった才能。母と私のつながりの証し。
これは弟にも父にもない、唯一無二の才能なのだ。私は「母のトクベツな存在」であることに喜びを感じていた。愛に飢えていた私にとって、それが唯一のアイデンティティだったからだ。条件付きの愛でも、私は母に愛されたかった。そのためには、どんなことでもしようと心に決めていた。
母は、周囲に自慢できる材料を切実に欲していた。私は母の格好の打ち上げ花火であり、手ごまだった。
私の投稿した文章が新聞に載ると、母は隣近所にその新聞を持って触れ回り、そしてその週は必ず車を走らせて、ルンルン気分で祖父母の実家へと向かった。娘の手柄は自分の手柄なのだ。
祖父母に褒められる私の姿を見ている母は、とても誇らしげで満足そうだった。まるで自分自身が褒められているかのように満面の笑みがこぼれていたのを、私は今も忘れることができない。私は、この母の笑顔を追い求めていたのだ。
しかし、私と龍之介くんが決定的に違ったのは、残念ながら私は母の望んだ「天才」ではなかったことだ。私は、文章が少しだけ人よりうまいだけの、ただの平凡な小学生に過ぎなかった。
それを立証するかのように、大人向けの賞に私がいくら応募しても、よくて佳作どまり。そのため、作文コンクールのようにはうまくいかなかった。
小学6年生の新聞デビュー
ちょうどその頃、宮崎の地方紙である宮崎日日新聞に「童話の部屋」というコーナーがあることを知った。「童話の部屋」は、一般の人から公募で自作の童話を募り、選考で選ばれればイラスト付きで掲載されるミニコーナーだ。
文字数の限られる投書欄と違って「童話の部屋」はとりわけ紙面でもその取り扱いが大きかった。私は母の勧めもあってこの「童話の部屋」にチャレンジすることになった。
「童話の部屋」に、はじめて掲載されたのは小学6年のときだった。
「久美子が新聞に載ってるぞ!」
朝、寝ぼけ眼で顔を洗っていたら、ひときわ大きな声で、父が私を呼んだ。父が開いている新聞の文化面の「童話の部屋」には、確かに「菅野久美子 小学6年生」という太文字が並んでいる。私は、ガッツポーズをした。
当時、「童話の部屋」は、大人たちの独壇場だった。この紙面をつくった記者は、およそ子どもから応募があるとは想定していなかったはずだ。だから私の原稿が選考を勝ち抜き掲載されたのは、原稿がほかに比べて秀でていたからではなく、物珍しさという面が大きかったと思う。しかし、そんなことは私は十分承知していた。
とにかく、私は「童話の部屋」でデビューを果たした。そのときの母は、これまでにもなく喜び勇んでいたと思う。母は親戚や近所の人たちに次から次に電話をかけまくって、興奮気味にすべての人たちに同じことを電話口でまくし立てていた。
「今日の宮日にうちの久美子が出てるから、見て! すごいでしょ!」
日本中が注目する「天才童話作家」にはほど遠かったが、私は母の自尊心を満たすことはできたようだ。