たとえ自分を虐待した親であっても、子供が最期まで面倒を見るべきなのか。近年、親の最期を押し付けられた子供たちから「家族代行サービス」に依頼が殺到しているという。自身も毒母に虐待され続けてきたノンフィクション作家が、親から逃れる選択をせざるをえない人たちの知られざる現実に迫る――。

※本稿は、菅野久美子『母を捨てる』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

孤独に食べる年配の日本人女性
写真=iStock.com/Hanafujikan
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孤独死現場で見た「生きづらさ」

私は数年間にわたって孤独死現場を取材し、孤独死の本を立て続けに二冊、出版した。周囲の人たちから「よく、あんな現場に行けますね」と驚かれることも多い。しかし、私が長年にわたって現場に足を運んできたのは、孤独死した人たちに、「生きづらさ」という共通点を見たことが大きい。

その背景には、親によって苦しめられたことが一因でセルフネグレクトに陥り、孤独死した人も大勢いた。

数々の孤独死現場の取材を重ねる中で私が目にしたのは、「毒親の最期」を一手に押しつけられた「子どもたち」の切実すぎる苦しみだ。親が元気なうちはまだいい。しかし、人は残念ながらピンピンコロリで死なない。

毒親に育てられた子どもにとって、成人までの親元にいる期間が苦しみの第一ステージなら、第二ステージは、介護から納骨までのいわば「死までのラストスパート」だ。そしてその時期は、親子がもっとも濃密にかかわらなければならない時期でもある。ここで、二次被害が起きる。だから、つらい。

母親と住む場所が違っても、「母」はずっと追いかけてくるのだ。

私はこの頃から、社会にはびこる「毒母問題」と真正面から向き合わなければならないと感じるようになっていった。

絶対に守られるべきは、毒親に苦しんできた子供たちなのではないか、と。親の面倒を見るのが当然とばかりに良識を押しつける社会。そんな大きな社会に対して、彼ら彼女らはあまりに無防備で、そしてそれによって深く傷ついている。

私はそれに腹が立って仕方なかった。悔しくて仕方なかった。彼らの苦しみは、自分の苦しみでもあったからだ。やはり、こうした社会には絶対に立ち向かわなければいけない。もはや一刻の猶予もない。そして彼ら彼女らの姿は、これから訪れる母と私の未来の姿をまさにシミュレーションしているようでもあった。

いくつになっても、私は母の承認に飢えていた

このとき、私の母は60代だ。この頃の私と母の関係は、傍から見ると人生でもっとも良好な仲を続けていたように見えただろう。

私はこの頃になると、立て続けに孤独死の本を出したこともあり、専門家としてメディアなどで取り上げられはじめた。母からするとそんな私は、いわば社会的な成功ルートを着実に歩んでいるように見えたはずだ。

私の活躍を見て、母は歓喜した。母の望む「一般的な女性の人生」からはちょっと逸れてはしまったが、とりわけ本の出版は大きく、ようやく地元で周囲に自慢できるネタができたと思ったのだろう。

母は気持ち悪いほどに私に媚びへつらい、私を持ち上げ、電話ではいつも上機嫌だった。

では、肝心の私の気持ちはどうだったか。

母と電話で話したり会ったりすると、唐突に母の寵愛を求めたい「幼い子どもの私」が頭をもたげてくる。

母に認めてもらえて、嬉しくなかったと言えば嘘になる。私は、正直嬉しかった。母に褒められ、有頂天になっていたのだ。いくら顔にしわが増えようとも、いくつになっても、私は母の承認に飢えていた。母の自慢の娘でいられることは、この上ない歓びだったのだ。