経済力のある大坂城の周囲を徳川一門で掌握した

藤井讓治『シリーズ 日本近世史1 戦国乱世から太平の世へ』(岩波新書)
藤井讓治『シリーズ 日本近世史1 戦国乱世から太平の世へ』(岩波新書)

この結果、大坂城の南には和歌山の徳川氏と岸和田の松平氏、北東には高槻の松平氏、西には尼崎の戸田氏があり、大坂城を核として親藩・一門・譜代による軍事配置が完成し、畿内だけでなく西国における幕府最大の軍事拠点が形成される(図表1)。また、この大坂の直轄化は、大坂のもつ経済力を幕府が直接掌握し、それをもって西国諸大名を統制下に置こうとした点も見落とすことはできない。

9月、大坂城を訪れた秀忠は、大坂城大改造の普請役を西国大名に課し、城の堀の深さと石垣の高さとを旧の2倍とするよう指示する。イギリス平戸商館長リチャード・コックスが本国へ送った書翰しょかんのなかで秀吉の大坂城より3倍も大きく再建されることになったと報じたように、この大拡張は、豊臣氏より遥かに強大な徳川氏の力をみせることを意図したものであったろう。

現在の大阪城天守閣
撮影=プレジデントオンライン編集部
現在の大阪城天守閣
【関連記事】
NHK大河ドラマを信じてはいけない…「徳川秀忠=凡庸な二代目」とは言えないこれだけの理由
千姫は夫の秀頼を殺した家康を恨んでいたわけではない…再婚後も「徳川の姫」として生きた波乱万丈の70年
なぜ徳川家康は65歳まで子作りに励んだのか…すべてを手に入れた男が「人生の最後」まで悩んでいたこと
関ヶ原の戦いで東軍・徳川家康に刃向かったのに…西軍の大将・毛利秀元が「3代将軍の友達」になれたのはなぜか
家康と三成は宿敵ではない…関ヶ原で負けボロボロの姿で捕まった三成を「医者に診せよ」と言った家康の真意