ノーベル賞受賞者を2人輩出した洛北高校

28人の日本人ノーベル賞受賞者(米国籍取得者を含む)を見てみると、25人が公立高校出身で、そのうち7人が旧一中の卒業生だ。旧京都一中だった洛北は日本人ノーベル賞受賞者第一号の湯川秀樹、第二号の朝永振一郎を輩出した。

あとは、山口(山口)が佐藤栄作、日比谷(東京)が利根川進、松山東(愛媛)が大江健三郎、藤島(福井)が南部陽一郎、北野(大阪)が吉野彰である。

公立高校以外では、国立の大阪教育大学附属から山中伸弥。私立は同志社の江崎玲於奈と灘の野依良治だけで、受験に特化した教育の弊害だと思う。

合併、統合、独立を経て現在の高校へ

旧制一中は基本的に県庁所在地に設立されたが、これにも例外もある。

弘前(青森)、安積(福島)、松本深志(長野)、彦根東(滋賀)、郡山(奈良)、姫路西(兵庫)、首里(沖縄)がそうだが、郡山市にある安積高校以外はいずれも城下町である。

江戸時代には、上級武士の子弟のみが入れる藩校以外に中等教育校はなく、庶民は家庭教師や私塾で例外的に中等教育レベルの教育を受けるしかなかった。

その名残で、明治中頃の段階では、尋常中学で学ぼうという若者はほぼ士族に限られていた。その後、平民でも中等教育を受けたいという人が増加し、滋賀県の場合は、一中は彦根東だが、1898年になって、二中として現在の膳所高校が創立された。

私の祖父は二中の八期生だ。その少し年の離れた兄は中等教育を受けていなかったが、祖父は通学圏内に中学ができたので、二中から無料で学べる陸軍士官学校、さらには陸軍大学へ進んだ。

戦後は、近在のさまざまな公立中等教育機関が新制高校として合併させられた。例えば、膳所中学(二中が改称)もふたつの高等女学校と商業学校の計4校と統合して大津高校になったが、マンモス校となり高校進学希望者数も増えたので、もとの学校ごとに独立していった。

この過程で、系譜を壊すような統合や分割の仕方をしたケースもある。大阪の北野高校と旧女学校である大手前高校は、いったん先生も生徒も半分ずつ入れ替えをしている。