しかし、花山天皇は、在位三年目で唐突に退位する。それは、最愛の妃を喪った悲しみに耐えきれず、出家の道を選んでの退位であったが、『大鏡』によれば、この電撃的な出家劇・退位劇の裏には、詮子の父親にして皇太子懐仁親王の外祖父(母方の祖父)である右大臣兼家の謀略があったらしい。

すなわち、幼い新天皇の外祖父として、天皇の大権を代行する摂政の座に着くことを目論む兼家が、一日でも早く外孫の懐仁親王を即位させようと、自らも動き、かつ、その息子をも使って、花山天皇に出家を唆したというのである。

父・兼家さえも陰謀の手駒にする

事実、花山天皇が突然の出家によって玉座を下り、懐仁親王がほんの七歳にして一条天皇として即位すると、その外祖父の兼家は、待ち構えていたかの如く、当然のように摂政に就任する。そして、新摂政兼家は、横暴の限りを尽くしつつ、栄華の限りを求め続けていく。兼家が花山天皇の出家・退位で得たものの大きさは、まさに計り知れない。

だが、実のところ、そんな兼家さえもが、この陰謀においては、単なる手駒の一つに過ぎなかった。剛腕の政治家にして辣腕らつわんの謀略家として知られる兼家も、実際には、その娘の詮子の掌中において、いいように転がされているだけだったのである。

考えてもみてほしい。右の陰謀で最も得をしたのは、結局のところ、天皇の母親(母后)となって、さらには准太上天皇ともなった、藤原詮子その人なのではないだろうか。

天皇を宮中から連れ出した計略

花山天皇が唐突に出家を遂げたのは、寛和二年(九八六)六月二十三日の夜のことである。その夜、花山天皇は、こっそりと宮中を抜け出すと、平安京東郊の東山に位置する元慶寺(花山寺)へと向かい、そこで、髪を下ろして僧侶となったのであった。

しかし、天皇が秘密裏に内裏および大内裏を出るには、やはり、手引きをする者が必要となる。そして、史書の『扶桑略記』によると、手引き役を務めて花山天皇を宮中から密かに連れ出したのは、蔵人として天皇の側に仕えていた藤原道兼と厳久という僧侶とであった。彼らは、巧みに最も目立たない経路を選んで、みごとに花山天皇を内裏からも大内裏からも脱出させたのである。

京都の竹林の道を歩く僧侶
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ここに登場する蔵人道兼は、兼家の息子に他ならない。彼は、「私も一緒に出家します」という虚言によって天皇に出家の決意を固めさせておいて、いざ元慶寺に到着すると、「出家する前に、父に最後の挨拶をして参ります」などと言って、さっさと逃げ出したという。おそらく、それらの全ては、兼家より指図された行動であったろう。

だが、僧侶の厳久は、道兼が逃げ出した後も、花山天皇の傍らにあった。そして、彼こそが、花山天皇に出家を完遂させるという、最も重要な役割を担ったのであった。