むしろ、王朝時代の倫理観からすれば、天皇の寵愛する女性に手を出すことこそが悪行であり、したがって、光源氏こそが悪人である。そして、悪人である光源氏が罪人として処罰されるのだとすれば、それは、正義の実現なのではないだろうか。
そう考えると、弘徽殿大后(弘徽殿女御)は、恐ろしい女性ではあっても、悪い女性ではない。それでも、彼女が「性なし」「悪后」と叩かれ続けてきたのは、要するに、彼女が光源氏の敵だったからであろう。物語の世界では、たとえ主人公こそが真の悪であるとしても、その主人公と敵対する登場人物は、皆、悪として位置付けられてしまうものなのである。
モデルとなった藤原詮子
しかし、『源氏物語』の弘徽殿大后(弘徽殿女御)のモデルの一人に比定される東三条院藤原詮子は、間違いなく、現実の王朝時代を生きた本物の「性なし」の「悪后」であった。
彼女に冠せられる「東三条院」という号は、太上天皇(上皇)に准ずる身の准太上天皇としての号であり、「院号」と呼ばれるものである。上皇が「院」と呼ばれることも、それぞれの上皇が「陽成院」「宇多院」といった院号を持つことも、王朝時代以前から通例となっていたから、一条天皇の母親として准太上天皇となった詮子も、「院」と呼ばれたのであり、かつ、院号を奉られたのであった。
ただし、一条天皇の母親であって、当然のことながら女性であった彼女は、殊更に「女院」と呼ばれ、また、彼女の院号は、特に「女院号」と呼ばれる。また、詮子の女院号が「東三条院」であるのは、彼女の父親の本宅であったことから彼女の里第ともなった邸宅が、世に「東三条殿」と呼ばれていたからに他ならない。
そして、そんな尊貴な身の東三条院詮子であるが、彼女は、恐ろしい女性であったうえに、とんでもなく「性なし」の、とんでもない「悪后」であった。
わが子を天皇にするため、花山天皇を出家に追い込む
なぜなら、彼女は、自身が一刻も早く天皇の母親(母后)になるために、一人の天皇を詐術によって玉座から追い出すという、ひどく悪辣な陰謀に荷担していたからである。いや、もしかすると、その謀略において、彼女は、単なる共謀者などではなく、首謀者でさえあったかもしれない。
そもそも、詮子は、右大臣兼家の娘であり、円融天皇の女御であった。そして、彼女は、円融天皇の唯一の皇子である懐仁親王を産む。すると、この皇子は、円融天皇が退位して、花山天皇が即位するや、わずか五歳にして皇太子に立てられることになる。この時点で、詮子は、『源氏物語』の序盤の弘徽殿女御と同様、皇太子(東宮)の母親という立場にあった。