「6日戦争」でガザ地区を占領
1964年にはパレスチナ解放を目指すPLO(パレスチナ解放機構)がアラブ人によって組織された。
1967年6月5日、イスラエルは、アラブ諸国を奇襲攻撃し、エジプト、シリア、ヨルダン、を撃破し、ヨルダン川西岸、ガザ、シナイ半島、ゴラン高原を占領した。6月10日には戦争は終わったが、これが第3次中東戦争であり、「6日戦争」と呼ばれる。
この大勝利で慢心したイスラエルに対して、1973年10月6日、エジプトがシナイ半島に、シリアがゴラン高原に奇襲攻撃をしかけ、アラブの軍事力を過小評価し、油断していたイスラエル軍は後退を余儀なくされた。
イスラエルは反撃に出て、シナイ半島中間まで戻したところで、アメリカの仲介で10月23日に停戦した。開戦の日がユダヤ教の祝祭日ヨム・キプールの日であったため、「ヨム・キプール戦争」と呼ばれるが、これが第4次中東戦争である。
「インティファーダ(対イスラエル蜂起)」が頻発していた
4次にわたる戦争の後、アラブとユダヤの対立を終わらせようとする動きも出てきた。
まず結実したのが1979年のキャンプ・デービッド合意である。イスラエルのベギン首相とエジプトのサダト大統領が、アメリカのカーター大統領の仲介によって、単独和平を達成した。
次いで、米ソ冷戦終了後の1993年9月13日、ノルウェーの仲介で、オスロ合意が成立し、イスラエルとPLOは、「パレスチナ暫定自治宣言」を調印した。
両者は相互に承認し、PLOはイスラエルの生存権を認め、PLOはテロを放棄した。そして、暫定自治宣言によって、ヨルダン川西岸とガザ地区にパレスチナ暫定自治政府が樹立され、着実にパレスチナの自治の拡大へと進むことが期待された。
しかし、イスラエル軍の撤退が予定通りに進まなかったり、新規にユダヤ人の入植地が作られたり、イスラム過激派によるテロや民衆のインティファーダ(対イスラエル蜂起)が頻発したりと、包括的和平への道のりは遠くなっていき、今回のハマスのイスラエル攻撃に至ったのである。
10月24日の国連安全保障理事会で、グテーレス事務総長は、ハマスによるイスラエル襲撃を非難しつつ、「何もない状況から急に起こったわけではない。パレスチナの人々は56年間、息のつまる占領下に置かれてきた」とした。
この発言に、イスラエルのギラド・エルダン国連大使は猛反発し、「テロを正当化している」として辞任を求め、さらにイスラエルは国連関係者にビザの発給を停止した。また、イスラエルのエリ・コーヘン外相は、24日の安保理で、グテーレスを批判し、「ハマスは新たなナチスだ。文明世界は団結してイスラエルを支援し、ナチスを倒さなければならない」と訴えた。
一度に1200人ものイスラエル人が殺害され、しかも、その大半が民間人である。また、200人以上が拉致され人質となった。このような被害は、ユダヤ人の民間人を逮捕し、ガス室などで虐殺したホロコーストに次ぐものである。