イギリスの「二枚舌外交」
しかし、イギリスはこの協定と矛盾する外交を展開した。1916年、三国協商を結んでいたイギリス、フランス、ロシアの三国は、戦後にオスマン帝国を分割して管理するという秘密協定を結んだ。ロシアは、1917年のボルシェヴィキ革命のために、途中で秘密協定から離脱。この協定が、「サイクス・ピコ協定」と呼ばれる。
さらに、1917年11月には、イギリスは、戦後、パレスチナにユダヤ人国家を建設することを認めるとユダヤ人に宣言した。ロイド・ジョージ内閣のバルフォア外相が、ロンドンのユダヤ人財閥ウォルター・ロスチャイルドに書簡を送って約束したもので、これを「バルフォア宣言」とよぶ。イギリスは、シオニズム運動に迎合し、ロスチャイルド家などからの戦費の支援を期待したのである。
パレスチナ人は難民に
第1次世界大戦後、パレスチナはイギリスの委任統治領となり、バルフォア宣言に従って、多くのユダヤ人の入植が開始された。そして、第2次世界大戦後の1948年5月14日にパレスチナにイスラエルが建国され、シオニズムは目的を成就した。
しかし、その結果、居住地から追い出されたパレスチナ人は難民となってしまった。
パレスチナ人にとっては、「ナクバ(大厄災)」の日である。
イスラエル建国に反対するアラブ諸国は、翌日イスラエルに侵攻した。これが第1次中東戦争であるが、戦争はイスラエルの勝利に終わり、翌年前半に、国連の仲介で停戦が成立した。
1956年10月29日、エジプトのナセル大統領がスエズ運河の国有化を宣言したため、イギリスはフランスとイスラエルにも出兵をうながし、第2次中東戦争となった。
戦争はエジプトの敗北で11月7日に終わったが、国際世論の支持を受けたエジプトはスエズ運河の国有化に成功した。