昔の客室乗務員はどんな働き方をしていたのか。1959年に日本航空(JAL)入社し、国際線に乗務していた福田和生さんは「着物を着用していたが、あとからセパレートの着物が導入された。1人だけが着用し、新人が着ることが多かった」と振り返る。航空ジャーナリストの北島幸司さんが取材した――。
JALは19年ぶりに国際線ファーストクラスを刷新
JALは2023年内に「エアバスA350-1000」を羽田―ニューヨーク線に就航させる予定だ。19年ぶりとなる国際線フラッグシップ機(基幹機材)の更新となる。これまでの国際線運航の経験を集中させ、コロナ明けの国際線需要の取り込みを狙う。
最上級となる「ファーストクラス」は1-1-1(横3列)で計6席を設ける。JALとしては初の扉を設けた個室型のものとなるという。これまで日本のエアラインで最小密度の配列だ。シート幅は約123cm、壁高は157cmの広々とした作りだ。
まさに「豪華そのもの」座っているだけで一流ホテル並みのサービスが受けられることには違いないが、かつてのJALファーストクラスは、これを凌駕するようなサービスが存在していた。JALは2024年に国際線就航70周年を迎えるというこの時期、初期のころは現代とはまた違った別の豪華さがあった。どのようなサービスの変遷を経たのか、筆者が所蔵する画像や資料を基にたどりたい。
就航当初は片道30時間で、全席ファーストクラス
JALによる日本初の国際定期航空便は、1954年2月2日から始まった。36人乗りのプロペラ機「ダグラスDC-6B型機」で、羽田⇔ウェーキ(太平洋中西部にあるアメリカ領の環礁)⇔ホノルル⇔サンフランシスコ間を週2往復した。機体の航続距離が短いためにホノルルまで直行できなかったことから、片道30時間の長旅だった。
JALによると、当初はファーストクラスの設定しかなく、航空運賃は米西海岸往復(羽田―サンフランシスコ間)で1170ドル。当時は1ドル=360円の固定相場であり、46万8000円となる。日本銀行の統計によると、当時のサラリーマンの平均月収は2万8283円だったので、日米を一度往復するだけで平均月収の16倍以上の費用がかかったことになる。