解散権の乱用を戒めた保利茂の遺稿

呼応するメディアもある。毎日新聞は9月19日の社説で「衆院解散権のあり方 政権維持の道具ではない」と題し、1978年当時の保利茂衆院議長が解散権の乱用を戒めた遺稿を引用したうえ、「解散の大義とは何か。権力の恣意的な行使の抑制という憲法の精神がゆがめられていないか。原点に返って考えるべきだ」と主張した。

保利茂(1901~79年)内閣官房長官や衆議院議長などを歴任した
保利茂(1901~79年)内閣官房長官や衆議院議長などを歴任した(写真=鵜殿七郎/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

岸田政権については「来年秋の自民党総裁選での岸田氏再選に向け、都合のよい時期に解散したいという思惑ばかりが聞こえ、政治から落ち着きが失われているように見える」とも指摘している。

保利の衆院解散をめぐる見解(遺稿)はどういう内容か。1979年3月21日の朝日新聞報道によると、保利は、7条解散は憲法上容認されるべきだが、それを発動できるのは、予算案や重要案件の否決、与野党対立で混乱し、国政に重大な支障を与えるような場合に、立法府と行政府の関係を正常化するためのものでなければならない、と主張していた。ほかには、選挙後に重要案件が提起され、改めて国民の判断を仰ぐのが当然の場合だとし、特別の理由もないのに、行政府が一方的に解散しようとすれば、憲法上の権利の乱用となる、とも強調している。

この社説はご都合主義ではないか

しかし、保利見解をここで引用するのは、ご都合主義なのではないか。

保利は、衆院議長在任中の1978年7月、自民党総裁選を12月に控えて、福田赳夫首相が解散風を煽ったことに反発し、解散権のあり方についての見解をまとめた。その後、解散の雰囲気がなくなったため、議長在任中には公表されず、翌79年3月の死去後に「遺稿」として明らかになったという経緯がある。

背景にあるのは、福田と大平正芳によるいわゆる「大福密約」(1976年10月)だ。「ポスト三木(武夫)」は福田とし、2年後には大平に政権を禅譲するという、この密約に保利が深くかかわっていたのである。

密約は、①ポスト三木の新総裁・首相指名候補に大平は福田を推挙する、②福田は党務を主として大平にゆだねる、③党則の総裁任期3年を2年に改める――という内容だ。保利が立会人になり、福田と大平、園田直(福田派)、鈴木善幸(大平派)の4人が、3項目の合意文書に署名している。