保利見解は福田の解散に反対が目的
福田は76年12月、三木退陣後の総裁選に無投票で選出され、大平を幹事長に起用した。だが、福田は政権運営に自信を深めると、総裁再選への意欲を隠さなくなり、78年春から夏にかけて再選を目指すかのような衆院解散論を流すこともしてきた。これに話が違うと怒ったのが保利で、福田による解散に反対するために書かれたのがくだんの見解だったというのが、当時の通り相場だった。
実際、保利見解を伝えた前出の朝日新聞にコメントを寄せた佐藤功上智大教授は「注目されるのは、解散権を乱用してはならないと力説している点である。この見解は、保利氏が福田首相の意図した解散に反対であり、そのために用意したように見える。政界の裏面を示すものとして極めて興味深い」とし、保利の政局絡みの狙いを見抜いていた。
その後、福田は、1978年12月の総裁選に密約を反古にして再選出馬したが、田中角栄が支援した大平に敗れ、解散権を行使できないまま首相の座を去った。なお、福田は晩年、密約の存在自体を否定している。
総裁選に勝つために解散を利用する
時を経て、保利見解が永田町で脚光を浴びたのが2003年1月、当時の小泉純一郎首相と自民党最大派閥・橋本(龍太郎)派との衆院解散をめぐる駆け引きの局面だ。きっかけは総裁再選を目指す小泉首相に対し、山崎拓幹事長が「9月の党総裁選前に解散して総選挙で勝てば、(総裁選は)シャンシャン大会になる」と進言したことだった。総裁選を無投票か、それに近い形に持っていくため、衆院選の勝利を弾みにするという戦略である。
このシナリオに反発したのが、橋本派幹部の野中広務・元幹事長だ。派の幹部会で「7条解散が行われることは問題があると、かつて保利茂・元衆院議長が指摘した」と述べ、総裁選前の解散論を牽制する。さらに、橋本派出身の綿貫民輔衆院議長が保利見解に言及しながら、「政府が勝手に(解散を)やるというルールはない」と同調した。これには、小泉氏も「これまで慣例でほとんど7条解散だった」と反論せざるを得なかった。