小泉政権当時に清和研が権力を掌握

衆議院解散を受けて記者会見する小泉首相
衆議院解散を受けて記者会見する小泉首相(写真=内閣官房内閣広報室/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

9月の総裁選は、橋本派が、小泉氏を支援する青木幹雄参院幹事長らと、藤井孝男・元運輸相を推す野中氏らが対立したまま分裂選挙に突入し、小泉氏が再選を果たした。直後に小泉首相は衆院を解散し、11月の総選挙で自民、公明、保守新党の与党3党は12議席減ながらも、絶対安定多数を確保したのだ。

この総裁選と衆院選が一体となった政治決戦を通じ、党内権力が平成研究会(橋本派)から清和政策研(森喜朗派)へ移行し、今に至っていることは記憶にとどめて置きたい。

小泉首相は2005年8月、宿願の郵政民営化法案が参院で否決されると、直ちに衆院を解散した。法案に反対した議員を党で公認せず、対抗馬を擁立するという劇場型選挙を展開し、圧勝した結果として法案を成立させている。与党内の対立を解散によって「解決」したケースと言えるだろう。

「与党内対立を収束させる最終手段」

待鳥聡史京大教授(政治学)が月刊誌『公研』8月号への寄稿で、こう説いている。

「首相と下院多数派の考えが異なる場合、そのたびに首相を交代させていると政治は不安定になる。そこで、解散を示唆することで首相と対立する与党議員を牽制したり、実際に解散することで対立を解消したりすることも手段として確保しておく必要がある。今日の解散は、与党内対立を収束させる最終手段と考えるべきなのである」

現況に照らせば、待鳥氏の指摘は核心に迫っていると言える。昨今の衆院解散を見ても、保利見解で例示された「立法府と行政府の関係を正常化する」という解散の機能は、時代にそぐわなくなっているからだ。

安倍長期政権は2度の衆院解散から

立憲民主党が「恣意的」と批判した、安倍晋三首相の2度の衆院解散は、どう理由づけられたのか。2014年11月の解散は、消費税率の8%から10%への引き上げ時期を、15年10月から17年4月に先送りする方針とセットだった。『安倍晋三回顧録』(中央公論新社)によれば、安倍氏は財務省を「自分たちの意向に従わない政権を平気で倒しに来る」と警戒し、党内の「増税論者を黙らせる」ため、衆院選に持ち込み、大勝した。安倍氏は、翌15年9月の総裁選で石破茂・元幹事長との一騎打ちを制し、長期政権への地歩を築く。

17年9月の解散は、北朝鮮、少子化対策に対処するとして「国難突破解散」を標榜したが、本音は小池百合子東京都知事が率いる新党の国政進出の準備が整わないうちに先手を打つことだった。小池氏の「排除」発言もあって、希望の党が失速し、結果的に自民党が政権を維持した。

こうした事例からは、立民党が求める解散理由を国会で審議することに、政治的意味が乏しいことが分かる。解散に大義や正当な理由がないと有権者に受け止められれば、総選挙に敗北するだけの話なのである。