子どもに無関心な両親

子どもは結婚するための道具に過ぎなかったということを裏付けるかのように、両親は柿生さんをかわいがらなかった。

自営業者の父親と、出産後、手先の器用さを活かして縫製工場で働き始めた母親は、柿生さんの世話をすることがほとんどなく、実質育ててくれたのは当時60代の祖母だった。柿生さんは生まれつき身体が弱かったが、柿生さんが体調を崩したときにそばにいてくれたのは祖母だけ。祖母は身体の弱い孫のために、良い評判を聞くと、どんなに遠くても公共交通機関を乗り継ぎ、その病院へ連れて行ってくれた。

柿生さんの両親の結婚に強く反対していた祖母は、両親と折り合いが悪く、両親も祖母を邪険にしていた。

4歳になった頃のこと。2歳下の妹が言葉に話せるようになったのにもかかわらず、柿生さんは一言も発さず、リアクションもない。そのため保育園と行政から、「もしかしたら耳が聞こえていないかもしれない」と言われ、検査を勧められる。

後日父親に連れられて検査を受けると、高機能自閉症と診断。「耳は聞こえているものの音には関心がなく、知能的には同年齢よりもやや下」という結果が出た。

「知能が低いせいか、私は幼い頃から掃除や片付けが不得意でした。おもちゃで遊んだあと片付ける方法がわからず、ぐずぐずしていると母に殴られ蹴られ、泣きながら片付けさせられていました。母は緑豆を煮たものが好きで、乾燥した緑豆が家に常備してあったのですが、母は気に入らないことがあると新聞紙の上に硬い状態の緑豆(大きさは通常は5ミリ前後)をばらまき、その上に正座させるという罰を与えました。もともと母は高血圧なのですが、怒るたびに血圧が上がり、遺伝性の心臓疾患を悪化させ、それがまたストレスになり、さらに私に当たるという悪循環がありました」

さすがの両親も、高機能自閉症と診断された際はかなりのショックを受けたようだ。

「高機能自閉症と診断されたなら、それ相応の療育支援などが必要になるはずですが、両親は体裁や見栄を気にして拒否。代わりに、発語を促すために大学病院での発語訓練を受けさせました。あとで知ったことですが、両親の結婚後没交渉になっていた親族たちは、『あれでは対症療法にしかならんだろう』と思っていたそうです」

ライトスイッチを操作する女の子
写真=iStock.com/donald_gruener
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それでも発語訓練の甲斐あって人並みに話せるようになった柿生さんは、小学校の普通クラスに入学する。

ところが、小3になると、授業中にひどく落ち着きがなく、成績も良くない柿生さんの普段の様子を心配した担任の教員が両親を説得し、県の教育センターで知能試験を受けさせてもらうことに。結果は知能的にボーダーラインではあるが、一応通常の範囲内だったため、両親は特に気に留めることはなかった。このとき柿生さんは、またもや療育などの支援を受ける機会を逃したわけだ。

柿生さんにほとんど関心がない両親は、ネグレクトだったと言っても過言ではない。しかも柿生さんが物心つく頃には、両親は日常的に暴言を吐き、平手打ちや腕や足の皮膚をつねるといった暴力を振るっていた。

「暴力や暴言が始まるトリガーについては、最後までよくわかりませんでした。ただ、幼い私と妹に無茶ぶりなどしては怒り、特に母は何か気に入らないことや不安などがあれば八つ当たり感覚で暴言を吐きました。身長140cm台で細身な祖母ひとりでは、縦はないけど横と厚みがある父と、フィリピン女性特有の気が強く無駄に声がデカい母を止めることは不可能でした」

身体が弱かった柿生さんは、保育園には月の半分行くことができるかどうかだったが、2歳下の妹は身体が強く、保育園時代から皆勤賞だった。

幼少期は一緒に暴行や暴言を受けていたが、身体が丈夫で要領の良い妹は小学校入学時にスポーツ少年団に入ってからというもの、水泳の市内大会で活躍するようになる。すると両親による妹への暴言や暴力はなくなっていった。