成績を気にする父親と門限に厳しい母親
祖母の介護が始まると、家で勉強できる状態ではなくなった。
「祖母は、もともと身体が受け付けない肉と牛乳以外は一汁三菜、3食きっちり食べる人でした。祖母は貧しい戦時中育ちで、認知症でさらに食に対する執着が増し、『食べてない』『いや、さっきおかゆ食べたよ!』という言い争いが絶えなくなりました」
早朝に起床してすぐに制服に着替え、一汁三菜の朝食を作り、自分の朝食前に祖母に朝食を与え、自分は簡単な食事を済ませてすぐに登校。学校内に一人になれる静かな場所をみつけて、そこで始業前に宿題を片付けていた。
そんな状況では集中して勉強ができるわけがなく、テストの結果が出るたびに両親に罵倒された。
「母がフィリピンの実家に残してきた異父兄が優秀で、後にフィリピンの国立大学を卒業し、カナダで就職しました。妹は頭も運動神経も良く、校内記録を次々と更新。特に数学の成績が良くなかった私は、夏休みに学校から出された宿題だけでキャパオーバーなのに、父から『お前はばかだから』と言って渡された問題集がやりきれず、夏休みの終わりに殴る蹴るの暴力を振るわれました」
一方、母親は門限に厳しかった。柿生さんの中学校の下校時間は、冬時間は17時、夏時間は18時だったが、どちらも「下校時間の1時間後までに帰宅」というルールを課した。自宅から中学校までは3キロほどあったため、ちょっと教師や友達と話をしていればすぐにオーバーしてしまう。母親は、門限破りを絶対に許せないらしく、母国語と思われる意味の分からない言葉をわめきながら暴れるため、帰宅後は母親を抑え込むのが柿生さんの恒例となった。
「両親の暴力は保育園の頃から中学生くらいまでありました。直接的なものだけでなく、あえて私を外して食器を投げたり、壁やドアを破損させたりといったことも多かったです。私は小学校に上がってからはすっかり丈夫になり、6年間一度も休まずに登校できたのですが、それもこれも病院探しに奔走し、最良の治療を受けさせてくれた祖母のおかげ。それに対し、ひたすら罵るばかりの両親に私が嫌気が差すのは当然のなりゆきでした」
だんだん柿生さんは母親に口ごたえするようになり、カッとした母親が怒りに任せて母国語を叫びながら掴みかかってくるため、母娘で取っ組み合いの喧嘩をするのは日常茶飯事に。そばで2人が喧嘩をしていても、父親と妹は無関心だった。
「中学では陸上部で長距離選手をしていたのですが、足を痛めることが多くて大会に出られず、マネジャーのようなポジションでした。当時は教師にも友達にも言えませんでしたが、祖母の介護の関係で、親から土日の部活は禁止されていました」
両親は土日は専ら、水泳部の妹を応援するために出かけていた。土日の祖母の見守り要員として、柿生さんを部活に行かせたくなかったのだ。しかし、柿生さんは粘り強く両親を説得。結果、土日は半日のみの参加なら許されることになった。