「ベテラン部長、中堅、伸びる若手」で体制をつくれるか

最初に来たときの印象をこう語る。

「千船病院はメディカルスタッフ(医師を除く医療従事者の総称)がとても優秀です。看護師は協力的で、リハビリのスタッフもやる気のある人ばかり。これならすぐ立ち上がるなと」

千船病院がPSCを立ち上げたのは、2020年3月に大阪府知事から「地域医療支援病院」の承認を受けたことと関係している。地域医療支援病院は、地域医療の確保を目的とした地域の基幹病院のことだ。地域のかかりつけ医らを支援するため、相応しい構造設備を備えていることなどが条件になる。副院長の樋口喜英は次のように説明する。

「今後ますます高齢の方が増えていくことを考えると、成人病やがん、骨折などでも地域のニーズに応えられる病院になっていく必要がある。その中でも、脳卒中の受け入れは地域から強く求められていたものの1つでした」

撮影=奥田真也

以前は、千船病院は脳卒中の受け入れに積極的ではなかったと、樋口は振り返る。

「脳神経外科は相当にハードです。全体をマネジメントするベテラン部長と、脂がのってバリバリ働いてくれる中堅、そしてこれから伸びる若手というバランスならうまく回るのですが、以前の脳神経外科は体力も技術もある中堅が不在で、対応できなかった」

大阪市西淀川区で脳神経外科の救急を受け入れているのは千船病院だけだ。千船病院が救急隊からの要請を断ると、患者は淀川を渡って福島区の病院まで搬送されるケースが多かった。

脳梗塞は治療が遅れるほど後遺症が残りやすくなる。地域医療支援病院を名乗るからには、救急隊からの要請やクリニックからの紹介を受け入れられる体制を構築することが急務だった。

「脳神経外科の医師は患者を受け入れるほど負担が増しますが、それをものともしないくらいアクティブな先生がいないとPSCは立ち上がらない。そう考えていたところに榊原先生が来た。求めていた人が加わったことで現実に動き出したんです」

防衛医大から海上自衛隊、そして脳神経外科医へ

救世主となった榊原はどのような医師なのか。

出身は大阪府茨木市だ。医師という職業を意識したのは、中2で塾に入ったときに受けたIQテストがきっかけだった。本人は当時をこう振り返る。

「おそらく私にやる気を出させようとしたのでしょう。『キミ、このIQなら医者か弁護士になれるよ』と。それで調子に乗りました」

学区トップの進学校に入学するが、そこで現実を思い知る。まわりは自分より優秀な生徒ばかり。将来は官僚や経営者として活躍するだろう級友たちになかなか敵わない。ならば違う土俵で彼らを助ける役に回ろうと、医師を目指すことを決めた。

現役のときは志望校の医学部に落ちた。一浪して猛勉強したが、不合格。ただ、受験時期が違う防衛医科大学校には受かっており、二浪はせずに入学を決めた。

防衛医科大学校は防衛省の管轄で、医官となる幹部自衛官の育成を目的に設置されている。大学医学部と同じく卒業時には国家試験を受けて医師資格取得を目指すが、カリキュラムやキャンパスライフは大きく異なる。

「全寮制で、下級生は上級生と2人1部屋。軍隊のイメージそのまんまで、『声が小さい』と言われては後ろから蹴られるような毎日でした。私のときは65人が入学して、夏には1割が辞めていた。つらかったですが、おかげでストレス耐性がつきました」

2006年に卒業して海上自衛隊医官となった後は、防衛医科大学校病院で2年間研修。そこで出会ったのが脳神経外科だった。

もともと頭を使うより手先を動かすほうが好きで、外科医になることは決めていた。1年目は呼吸器外科で学んだ。肺がんは脳に転移することもあるので、脳についても勉強しようと翌年は脳神経外科に。そこで“わっしょいわっしょい”の世界に触れた。

「『終わったら飲みに行くぞ』というノリで、みんなでワーッと手術をするんです。語弊があるかもしれませんが、高揚感があって刺激的。自分はこの道を極めようと思いました」

研修が終わった後は自衛隊横須賀病院で2年間勤務した後、大学病院に戻り、脳神経外科医としての経験を積んだ。

医官になって9年目、転機を迎えた。防衛医科大学卒業生にとって、この「9年目」は大きな意味がある。卒業後、医官として9年間の勤務を義務づけられている。その期間が終了するのだ。

一人前の外科医として通用するという自信はあった。ただ、脳神経外科界で“匠の手”と呼ばれる上山博康や谷川緑野が所属する札幌禎心会病院脳神経外科――通称「上山塾」――に2年間、国内留学して、自信を粉々に砕かれた。

「手術のやり方がまったく違いました。たとえば大学病院のときはズバッと皮膚を切ってましたが、上山塾では皮膚の構造を考えながら切る。膜の上で剥がすようにして切ると出血が少ないんです。何から何まで洗練されていて、芸術作品のようでした」

撮影=奥田真也

国内留学すると、その半分の期間を医官として継続するのが内規だった。脳神経外科のない自衛隊舞鶴病院で隊員の健康診断などを担当した。それも重要な仕事だが、手術をしなければ外科医として腕がなまってしまう。1年後、渇きを癒すようにして手術ができる病院に転職した。

転職先として選んだのは兵庫医科大学病院だった。兵庫医科大学には、カテーテル治療で有名な吉村紳一がいる。脳神経外科医としてステップアップするためにカテーテルの技術も身につけようと選んだ転職先だった。

兵庫医科大学では1年半で130件の外科手術の術者を経験。そして2020年、千船病院PSC立ち上げを打診された。