秀吉は小田原征伐についての詳細もねねに知らせていた
その手紙からおおよそ1カ月後、小田原攻めは長丁場になると言っていたとおり、秀吉からの報告によると、なかなか苦労をしている様子が窺えます。
丁寧なお手紙をいただきました。まるでお会いしているかのような心地で、隅々まで読み蔑した。小田原の状況ですが、堀際から一町のところに仕寄りを作る指示をしたことで、敵は一段と窮地に立ち、降参するに違いありませんでしたが、さらに干殺しを指示するよりほかは望まなかったので、取引をせず、早々と、出羽奥州の者まで、出仕させました。早速、城もたくさん取ったので、ご安心ください。若君、大政所、豪姫、金吾、そしてあなたが元気でいると聞き、嬉しく思います。いっそうご養生ください。
追伸 私のことはご安心ください。さっそく御座所の城も、石倉ができている次第で、台所もできているので、そのうち、広間と天守を建てるように指示します。いずれにしても、今年じゅうには平定を終える予定です。ご安心ください。必ず年内にそちらに参り、お目にかかリ、つもる話をしようと思います。どうぞ待っていてください。きっと、若君は一人で寝ていることと思います。
(原典は小山文書、『太閤書信』#70)
追伸 私のことはご安心ください。さっそく御座所の城も、石倉ができている次第で、台所もできているので、そのうち、広間と天守を建てるように指示します。いずれにしても、今年じゅうには平定を終える予定です。ご安心ください。必ず年内にそちらに参り、お目にかかリ、つもる話をしようと思います。どうぞ待っていてください。きっと、若君は一人で寝ていることと思います。
(原典は小山文書、『太閤書信』#70)
ねね宛ての手紙から読み取れる秀吉のまめな愛情表現
「仕寄り」という言葉が出てきますが、これは戦の専門用語で、攻めている城に接近する行動のことで、そのために必要になる構造物のことも仕寄りといいます。小田原では城からの攻撃から自分たちの軍を守るため、仕寄りが作られました。かなりの攻防が続いていて、秀吉は和解に持ち込まず、攻めに攻め、兵糧攻めをもって、降参させる方針を打ち出していました。「御座所の城」とは一夜城として知られる石垣山城のことです。
実子の鶴松、実母の大政所、養女の豪姫、養子の金吾、それに正妻のねねが元気にしていることを嬉しく思うという部分は、ねねが送った手紙に、それぞれの近況が書いてあったことを示しています。ねねは、家族を守って、大坂にいました。秀吉も、ねねと家族を心配して、返し書き(追伸)には「必ず年内にそちらに参り、お目にかかり、つもる話をしようと思います。どうぞ待っていてください」と、前回と同様の約束をしました。