家康と信長の本当の関係
ところで、岡崎城に戻った家康は、すでに6月4日には、蒲生賢秀と氏郷の父子に宛てた書簡に、信長の弔い合戦をして光秀を討つ決意を記している。そして5日には、家臣に出陣の用意を命じている。
だが、悪天候などを理由に出陣は延び、ようやく14日に岡崎城を出陣して鳴海(名古屋市)に着陣したが、その前日には、羽柴秀吉が山崎の戦いで光秀を討ち果たしていた。19日に秀吉からの「光秀を討ったので帰陣されるように」という連絡を受けとって、岡崎城に戻っている。
家康は敬愛する信長の仇をとりたかったのだろうか。あるいは、信長なき織田政権のなかで主導権を握りたかったのだろうか。主たる動機は、おそらく後者ではないだろうか。
いずれにしても、信長の死を知って追い腹を切ろうし、無事に領国に帰着してからは、みずからの手で信長の仇を討とうとした家康。私怨で信長を恨み、ついには討とうとまで考えた「どうする家康」の家康像とは、かなり隔たっているようにも見えるのだが。